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あの人からみたル・コルビュジェその1 《黒川VS磯崎》篇

昨日の夜自分が書いたエントリを読み返してみた。
この戸惑いを言葉にすることに若干の躊躇はあるものの、この際だから正直に言ってしまおう。
俺は何がしたかったのだろうか。この文章を書いている間、俺の身体にモノノケか何かが取り憑いていたのか。
そんな自問を投げかけずにはいられないほどに、昨日俺が書いた文章は余りにも不可解極まりないものである。
というかホントに誰に向けた文章なんだこれは。
そもそも建築と関係ない。読書会の紹介を模しているが、実のところ読書会ともほとんど関係ない。ただのゴキゲンな嘘八百である。
これはいったいどうしたことだろう。
立ち上げ間もない前途有望な読書会のブログにこんな意味不明な文章を投稿するほどに、俺は生活に疲れてしまっているのだろうか……

……というわけで、今日はまっとうに建築の読書会的な投稿をします。
先日の読書会のまとめをつくるために前回参加してくださったソノダさんに連絡を取ったところ、軽く眩暈を起こすほど膨大な本の抜き書きを送って下さったので、その中からコルビュジェ関連の気になったところを抜き出しながら――コルビュジェについてはいろんな人がいろんなことを言ってるわけですが――あの人はどんなことを言ってるのか的なことをまとめていくと有意義かなと思ったので、何回かに分けてそれをこなしていきたいと思います。

■黒川紀章

日経アーキテクチュア編『建築家という生き方 27人が語る仕事とこだわり』(日経BP社・2003年)P.127
黒川紀章(コルビュジエの失敗について)

建築家を必要としない社会をつくってしまった…
50年代ごろになると自分たちがあれほど信頼した工業化社会というものが、建築家を置き去りにして先に行ってしまったわけです。理由は簡単です。工業化社会は同じものを量産するうえに成り立っています。非常に品質の高いものが大量に生産される社会では、建築家は必要とされないのです。それがはっきりと見えてきたのが50年代後半だったと思います。


この認識は割とわかる気がします。50年代というのが具体的に何の登場を指しているのかわからないのと、あとなぜコルビュジェがそういう社会をつくってしまったことになるのかはイマイチわかりませんが。
黒川は1988年の雑誌ユリイカ「総特集 ル・コルビュジエ」に「反面教師・ル・コルビュジエ」という短い文章を書いていて、そこで近代主義の本質を

1 形而上学(メタフィジックス)重視
2 ロゴス中心主義
3 西欧中心主義


と定義し、コルビュジェがその理想を体現していた建築家だったと言っています。

形而上学は単なるロゴスへの確信としてではなく、現実を説明しつくそうとする知の体系として完成される。(…)形而上学、ロゴス中心主義の完成こそ、西欧における近代主義の目標であったといってよい。
近代化とは、このような西欧社会の目標に近づくことであり、非西欧社会においては、近代化は、西欧化と同義語であった。
(…)パルテノンは、基本的に機能的な対象の最高の例であり、人間に内在する軸線と合致している普遍的な調和からつくりあげられており、宇宙の軸線とも合致し、幾何学や数学的比率や究極の真理に、純粋に基づいているというのである。
また、彼は「明日の都市」の中で、次のように述べている。「この近代的感情は、幾何学の精神であり、構成と総合の精神である。正確と秩序がその主要な条件である。……情熱から生まれる個人主義の代りに、われわれは平凡なものや共通したものを好み、例外よりも規則の方を好む……われわれは普遍的な美に惹かれ、そして英雄的な美は単に劇場的なものに見える。」(…)その強い造形力によって押し隠されている彼の精神、形而上学は、まさにロゴス中心主義そのものであり、西欧の近代主義そのものである。


しかし、

ロゴス、知性によって秩序づけられる世界、神に代って、世界を支配する知性の世界が、西欧中心主義の世界でもあったために、近代主義の影響力は急速に衰えていった。西欧の言語に基づくエスペラント語に対する期待が下落したのもその頃であった。
今、われわれの立っている地点は、神に代る知性の支配を信じていないところにいる。唯一の普遍的な美という現前の理想型を信じていないという点にある。そして、西欧中心の世界は、レヴィ-ストロースの構造主義によってとっくに相対化されていることを知っている。
(…)今、われわれは、神に代るロゴス(知性)の世界が、容易に感性(身体)によって変形さる得ることを知っている。宇宙の軸と同調する普遍的な唯一の美よりも、個々の持つ多様な軸の交差、差異、そしてそのずれを重視している。


だから、今こそコルビュジェを反面教師にしないといけない。

要するに、わかりやすく近代に批判的な、典型的なポストモダニストというか、「コルビュジェ=近代主義」をまったく疑っていない、もしくはその二つの間のズレにフォーカスを合わせていないのが黒川さんという感じでしょうか。もちろん、この雑誌の出版年が20年以上前であることは考慮に入れるべきだと思いますが。

■磯崎新

磯崎新『建築家のおくりもの』(王国社・2000年)P.165
ル・コルビュジエは、アクロポリスがあまりに美しいから、それに反逆して、「機械としての住宅」を唱えはじめたのだ、と私は解釈した。愛憎がからみ合って、未知の世界へと翔ばねばならない。このパラドクスひとつで若い私には充分だった。


前後の文脈がわからないので何とも言えませんが、1文目を字義通り受けとれば、コルビュジェは「アクロポリスがあまりに美しいから」「反発するようにあえて」機械としての住宅を唱え始めたツンデレという解釈で良いのでしょうか。ちょっとよくわかりませんが気になりました。

自分の認識では、コルビュジェはアクロポリス(パルテノン)=機械としての住宅=普遍的な美を結構ベタに信じていたのではないかと思っています。コルビュジェの文章を読むかぎりでは、彼の普遍的な美の存在への信頼が半ば宗教がかっているように見えて、どこまで本気かわかりにくい。そこが私たちのコルビュジェのわかりにくさの核なのだと思いますが、この発言がその是非についてどのような立場に立っているのかもよくわかりません。

磯崎もまた、先程のユリイカ「総特集 ル・コルビュジエ」に「海のエロス」という文章を書いています。正確には、71年に書かれた文章の再録だそうです。これもまたすごく晦渋でインテリな文章で何が書かれているのかはっきり言ってよくわからないのですが、論旨としては、

1.コルビュジェの初期の建築は、「パルテノン=機械」に象徴される古典的な比例(プラトン的らしい)に、透明で明晰な質感を加え、より究極の純粋形態に到達することを試みていた。
2.しかしある時期から変貌が始まる。たとえばスイス学生会館(1930-1932)の階段棟の乱石積みの表皮は、ざらざらして不定形で、抽象的な純粋性にまったく背反している。いわば不透明な物質性に近づき始める。その後、石や木材といった目に見えて反工業的な素材を乱用し始める。
3.その回心の契機はコルビュジェが一方で描いていた絵画に登場し始めた肉体への意識にあったのではないか。肉体=性的なもの=海。
4.だからコルビュジェは海辺で死体となって発見されたのだ! な、なんだってー(ry


という感じで間違ってないと思います。たぶん。

88年の黒川とは対照的に、71年の段階で磯崎がコルビュジェの近代主義から零れ落ちる部分に明らかに注目していることは面白い。もちろん、短い文章だけで単純に比較することはできませんが、黒川紀章が図式的で抽象的な話をしているのに対して、磯崎新が晦渋な語り口で素材について触れていることは重要な気が。

磯崎さんはコルビュジェについての本も出してますね。これも読みたい。
磯崎新『ル・コルビュジエとはだれか』

朝から疲れたのでこれで終わり。
次回は丹下健三、八束はじめ、鈴木了二の三本でお送りします(気が向いたら)。

あとプロフィール欄の画像もつくりました。明らかに俺はこのブログで遊びすぎである。

(アサノ)
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ソノダ

ここにのせられている黒川の文章は、誤解を恐れずにいえば、僕にはほとんど理解ができません。どこか混乱めいたものを感じるのですが、それは視点の問題にあるのではないでしょうか。黒川の、というよりも、コルビュジエのそれが混乱している、といってよいのかもしれません。
まず、近代主義の本質が上記の三点(形而上学重視、知性中心、西欧中心)という点は分かります。かみくだいて言えば、「これからは神(西欧人?)よりも、むずかしいこと(形而上学、知性)をいっぱい言う人間(西欧人)の方がエライんだ」という幻想をもちはじめたと同時に近代主義は出発したということでよいかと思います。

「パルテノンは、基本的に機能的な対象の最高の例であり、人間に内在する軸線と合致している普遍的な調和からつくりあげられており、宇宙の軸線とも合致し、幾何学や数学的比率や究極の真理に、純粋に基づいているというのである。」

ここには、「普遍的な調和」「宇宙」「究極の真理」という、証明しようのない(したがって個人的な)比喩表現が多く見られますが、これらの表現がコルビュジエから発しているのだとすれば、たとえば「パルテノンが宇宙の軸線と合致している」というのはコルビュジエから見た感想であって、彼の同時代の人々がもった感想ではないはずです。さしあたり、それを切り離して考えねばなりません。つまり、重要なのはパルテノンがもともと普遍的な美を備えた建築だというのではなく、それはコルビュジエによって作られたある種の神話だということです。ブルーノ・タウトが桂離宮を発見したように、彼はパルテノンを発見したのだと考えられます。

「この近代的感情は、幾何学の精神であり、構成と総合の精神である。正確と秩序がその主要な条件である。……情熱から生まれる個人主義の代りに、われわれは平凡なものや共通したものを好み、例外よりも規則の方を好む……われわれは普遍的な美に惹かれ、そして英雄的な美は単に劇場的なものに見える。」

ここはコルビュジエの「明日の都市」という文章からの黒川さんが引用したということでまちがいないでしょうか。
このあたりもよく読んでみると、混乱してきます。いや、あるいは単に割愛されているせいからかもわかりませんが、とにかく、コルビュジエにとっての近代的精神とは何かがよく分からない。
ふつう考えればここで持ち出されている「情熱から生まれる個人主義」こそ、近代的精神の持ち主であるように思うのですが、彼に言わせるとどうもそうではなく、「平凡なものや共通したものを好み、例外よりも規則の方を好む」のだという。では、彼にとっては個性を埋没させようとする人々こそ「近代的感情」をもつ人々のことなのか。「みんなちがってみんないい」ふうの強者(確固とした個性をもっているんだと考えている人)が散在するイメージではく、「赤信号みんなでわたればこわくない」という弱者(個性なんてないんだと考えている人)が群れるイメージこそ、近代主義にふさわしいというのだろうか。
この文章を難解にしているのは、おそらく「主語の使い方」のせいだと考えられます。コルビュジエはここで、「われわれ」という主語を使っていますが、(あるいは訳者が付け加えたという可能性もないとはかぎりませんが)、われわれとはいったい誰のことなのかということです。ここには「コルビュジエ自身」は含まれているのでしょうか。ただ、字句通りに捉えれば、ここにはコルビュジエ自身も含まれるはずです。それが事態を混乱させています。彼はさきほど述べた意味での弱者ではなかったはずです。彼は建築作品という場面において、あまりにも強烈な個性を発揮している。にもかかわらず、「われわれは平凡なものが好き」と、述べている。ここでは彼は自身が内に秘めている強い個性をひた隠し、一般大衆を装っているように響きます。そして、このあたりがコルビュジエの捉えにくさとなる理由のひとつではないか。そして同時に、これこそ彼の「近代」に対する態度ではないか。
つまりまとめると、「普遍的な美」などというものは、この世に存在しない。これは彼が勝手に作り上げたものにすぎない。にもかかわらず、この「普遍的」という厄介な言葉を意図的に利用して、「普遍的な美」が存在することを、「普遍的」たらしめようとした。いいかえれば一般大衆にいかにも「了解済みだった」という態度でもって受け入れてもらえるよう、文章の中で「私は普遍的な美に惹かれる」ではなく、「われわれは普遍的な美に惹かれる」と、巧妙に主語を変えたのである。「普遍的な」という言葉のさす対象は、個人を超え、西欧を越え、人類にまで到達する。かなりいやらしい見方をすれば、これは世界へと躍進するための彼の戦略のひとつだったのではないだろうか。
黒川は、(コルビュジエ以後の)われわれは、「神に代る知性の支配を信じていないところにいる」と述べているが、コルビュジエもまたある意味では知性の支配を信じていないと言えるだろう。つまり、「同時代の一般大衆の知性」は信じないが、「自身の知性」はひそかに信じ、そしてそれが世界を支配することを望んでいたのである。ところが、それでは反発を受けるおそれがあるから「われわれのひとり」にまぎれこみ、さもわれわれが「普遍的な美」を探しているかのように偽装した。
つまり、表面的には一般大衆をよそおい、彼らの代弁者として世に知られていた。そしてその意味では彼はれっきとしたモダニストであった。しかしその実は、コルビュジエ以後のわれわれがそうであるように、(一般大衆の)知性に見切りをつけ、自らの知性だけを頼りに生きようとした。彼をモダニストといい切ったあとに残るうしろめたさは、このあたりの事情とふかく関わっていると考えられないでしょうか。彼は道化かもしれません。

アサノ

コメントどうもです。ご意見にほぼ同意します。

確かに、コルビュジェの使う「普遍的」「宇宙」「究極の真理」「われわれ」といった言葉は、どうあっても普遍的たりえない極めて個人的で恣意的なものでしょう。そう考えると、

>かなりいやらしい見方をすれば、これは世界へと躍進するための彼の戦略のひとつだったのではないだろうか。

>コルビュジエもまたある意味では知性の支配を信じていないと言えるだろう。つまり、「同時代の一般大衆の知性」は信じないが、「自身の知性」はひそかに信じ、そしてそれが世界を支配することを望んでいたのである。ところが、それでは反発を受けるおそれがあるから「われわれのひとり」にまぎれこみ、さもわれわれが「普遍的な美」を探しているかのように偽装した。

というのも非常に納得のいく見方です。『リアリテ ル・コルビュジエ』という本のなかで鈴木了二がこんなことを言っています。

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特に重要なのは、これは建国の場合でも同じですが、起源がすごく重要になってきます。神話ですね。つまり、自分の言っていることが、自分から発しているのでは全然だめなわけです。要するに個人コルビュジエが言ったというのでは説得力がない。今でこそコルビュジエが言ったというとそれだけでイケる。もう十分神話化しているから。でも当時は、コルビュジエという人が言いましたといっても、「誰? それ」で終わってしまう。情報に確かさを与えるためには起源が要る。そこで彼はすべてギリシャから始まるという感じで言った。この、ギリシャを起源に持ってくるというのは、ヨーロッパでは絶対ウケます。真面目に耳を傾けてくれる。
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つまり、コルビュジェは自分の意見がより正当性を増し、より流通するように、「あえて」パルテノンを持ち出したのではないか。そういう秘めたる意志を、コルビュジェは持っていたのではないか。
ソノダさんのコメントも、大意としてはそういうことでいいかと思います。

一方で、本文中でも書いたように、コルビュジェ個人がパルテノンに普遍的な美が備わっていると信じていたか、普遍的な美が存在し得ると思っていたかは、はっきり言ってよくわからない。
コルビュジェの言う「普遍的な美」が(客観的に)普遍的たりえないことと、コルビュジェが(個人的に)「普遍的な美」が存在すると信じていたかどうかは、別の問題であるように思えます。

これを書いているうちに「普遍的」なもの=「大きな物語」とも言い換えられるような気がしてきましたが、その存在を疑っている僕たちの相対主義的な見方自体、ポストモダン以降(「大きな物語の凋落」以後)の世界認識の枠組みの上に成り立っているのではないかと考えると、コルビュジェと同時代の人々の反応が知りたいところです。

それから、

>ふつう考えればここで持ち出されている「情熱から生まれる個人主義」こそ、近代的精神の持ち主であるように思う

というのは、確かに僕もそう思うのですが、この認識はどこから来ているのでしょうか。自分でもよくわかりません。
誰かそういうことを言ってる人っていますか?

P.S. 日本でコルビュジ「ェ」じゃなくてコルビュジ「エ」って書くことで総意がとれてるのは何故なのでしょうか。僕は最近みんなが「エ」と書いてることに気づいたのですが、どうしてもコルビュジェと書いてしまいます。

sonoda

>コルビュジェの言う「普遍的な美」が(客観的に)普遍的たりえないことと、コルビュジェが(個人的に)「普遍的な美」が存在すると信じていたかどうかは、別の問題であるように思えます。

ひとまず、上記の問題については保留させてください。


>ふつう考えればここで持ち出されている「情熱から生まれる個人主義」こそ、近代的精神の持ち主であるように思う

というのは、確かに僕もそう思うのですが、この認識はどこから来ているのでしょうか。自分でもよくわかりません。
誰かそういうことを言ってる人っていますか?

近代的精神の変遷を扱った文章がありましたので、少し紹介します。

『命題コレクション社会学』「自我の社会性」という項目に「自我」に対する考え方の変遷がまとめられています。ただ、「自我」と「近代的精神」が同じものを指すかどうかはっしあたり分からないのですが、ここではほぼ同義のものとして進めたいと思います。

自我の問題はデカルトの有名な言葉「ワレ思う、故にワレ有り」からスタートしており、その場合、「自我は封建的束縛から解放された近代的人間のあり方を方向づけるものとして描かれていた」とあります(船津衛1986)。
ただし、このような自我を唯一絶対の存在として捉える自我論は「独我論」と呼ばれ批判されたそうです。では、それにかわる自我論とは何かというと、自我を固有のものとして生まれてくるのではなくて、関係の中で形作られていくものだと考えるものです。そこで、C・H・クーリーという人は「鏡に映った自我」という概念を作り、私たちは鏡としての他人を見ることで、自分を知っていくのだと考えた。さらにG・H・ミードは、人は社会の中で何らかの役割をもつことで自我を作り上げていく(役割取得)と述べた。
以下、自我について展開されてゆきます。さしあたり見つけた文章のひとつです。

アサノ

返信ありがとうございます。

ソノダさんのコメントを読んでいて思ったのは、やはり「近代」という概念はあまりに巨大で、時代的に(階級的にも?)いくつかの段階に分けて考える必要があるのかなということです。もちろん、その複数の段階に通底するものもあるのだとは思いますが。

とりあえず社会学とその周辺が定義する近代的自我と、コルビュジェにおける近代的個人像のあいだに、どのような整合性が見てとれるのかは、はっきり言って全然わかりません。

しかし、コルビュジェの「われわれ」が、近代のなかでも特定の一時期のものであることは、とりあえず確認しておくべきかもしれません。
一般的な意味での近代は、産業革命やアメリカ独立・フランス革命という市民革命、要するに18世紀以降に始まったと考えられています。
一方コルビュジェは、1920年頃に「偉大な時代が始まったところだ」とか「新しい精神が存在している」とか言っている。これらが「機械」という言葉に託して語られています。
「平凡なものや共通したものを好み、例外よりも規則の方を好む」「われわれ」もまた、その当時の人々の気分を反映したものとして(たとえそれがコルビュジェの恣意に満ちたものであったとしても、見かけ上は)設定されていたはずです。
この時代背景をもとに、コルビュジェと「近代」「近代化」「近代的自我」の関係について考えることが必要だと思います。

この時代に対応する社会的な転換は、(ロシア革命を含む)第一次大戦です。『建築をめざして』の序文でも、吉坂隆正によってそのことが触れられています。
で、これはたぶん山本理顕がよく言ってることですが、この時期の近代建築の方向性はヴェルサイユ体制以降の国家戦略と整合性を持っていた。
1900万人の死者を出した大戦でヨーロッパが荒廃し、大戦以前から都市に流入していた人口(19世紀後半だけで西欧の主要都市人口は3倍~5倍増)を収容する施設が必要であるという社会的要請が、表向きには近代建築が躍進する際の大義名分でした。
しかし一方で、住居システムの変容(1住宅1家族)が国家による人口の管理を補助する役割を果たしたらしい。

たとえばユニテ・ダビタシオン(これは第二次大戦後ですが)は、「住戸(アビタシオン)」の「統一体(ユニテ)」であると同時に「住戸」の「単位(ユニテ)」でもあります。何パターンかのユニットの反復で集合住宅が構成されている。日本の団地やニュータウンのイメージでしょうか。
標準化された「単位」で家族の在り様、ひいては人口を把握できるようになるのは、国家にとって都合がよかった。要するに、人間を数で把握するということです(たぶんそのような標準化・規格化を経て、「大衆」のイメージが生まれていったのではないかと思うのですが)。

山本によると、どうも1住宅1家族が1民族1国家体制をつくる上で重要な役割を果たしたらしい。なぜこの時期に1民族1国家体制をつくることが必要とされたのかについてはイマイチよくわかりません。というか調べられていません。ウィルソンが「民族自決」とか言ってることもそれと関係あるのかもしれません。あとナチス体制下のドイツでユダヤ人が迫害されたこととか。

いずれにせよ、「われわれ」が「平凡なものや共通したものを好み、例外よりも規則の方を好む」ことをその時期の国家はある意味で望んでいたようです。
そして、コルビュジェはほぼ間違いなくこのような国家の思惑とは無関係だったでしょう。にもかかわらず、なぜ彼が標準・規格、あるいは普遍性に、執拗なまでにこだわり続けたのかについては、やっぱりよくわからない。結局謎はその部分――美学と機能主義の危うい両立関係――に集約される気がします。

思いつきだけで書いてたらまとまらなくなってきました。とりあえず、産業革命以降の大きな流れとしての「近代化」と、コルビュジェの時期の「近代化」の質の違いを見極め、それらが個人の自我形成にどう影響するかを見極めることが必要だと思いました、というだけの話なのですが。相変わらずのふわふわしたコメントでした。

あとよくわからないのは、「大衆」は近代的自我を持ったものとして想定されるのでしょうか? ひょっとして近代的自我はごく一部の特権階級が持つものだったのではないですか? 一方で激しく見当違いなことを言ってるというか、話の前提が混乱してる気もするのですが……。

ところで昨日『イノセンス』(2回目の読書会で取り扱った五十嵐さんの『美しい都市・醜い都市』でも言及されています)を観直したのですが、やっぱりなかなか良かったです(鏡のモチーフも頻出します)。公開時期に出た押井守の本のタイトルがズバリ『イノセンス創作ノート人形・建築・身体の旅』といって、これもソノダさんの関心にマッチしそうな気がするので、ぜひ読んでいただきたいなと思いました。というか今度貸します。

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関西の大学生やら大学院生やら建築系やら文系やら忙しい人やら暇人やらが参加している、建築関係の読書会です!
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