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『レム・コールハース:ア・カインド・オブ・アーキテクト』

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(2009/01/09)
レム・コールハース

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今日は、レム・コールハースのドキュメンタリー映画『ア・カインド・オブ・アーキテクト』を観直した。お金がなくなってきたのでブックオフに売ろうと思って。

この映画の価値は、なんと言ってもコールハース脚本の映画『ホワイト・スレイブ』の一部が観れるとか、ジャーナリストとしてシチュアシオニストのコンスタンにインタビューに行ったことが建築家になるきっかけだった(たぶんこの時25歳くらい?)とか、他の本で載ってない(そしてミーハーには嬉しい)前史に触れているところだ。脚本家時代にフランスの作家主義に反発していたというのは、その後のコールハースのスタンス(「私は都市のゴーストライターである」以降、文章の主語はすべて「We」だという逸話を誰かが書いていた)を考えるとなかなか示唆的である。この見方自体が作家主義的だけど。

「建築家と脚本家の仕事はよく似ている」とコールハースは言う。「どちらもプロットを考える必要がある」「興味深いエピソードやモンタージュ――物語の流れも必要ですよね」「作品に緊張感を持たせて面白くするのも同じですよ」。実際、のちにコールハースが提案したラ・ヴィレット公園のコンペ案(二等、一等はベルナール・チュミ)は、断片的なランドスケープをバーコード状に並べて、モンタージュのように構成するというものだった。
oma1_lavillette.jpg

いまさら気づいたけど、OMAの建築が外はシンプルで内部はダイヤグラムによって複雑に構成されているのは、『錯乱のニューヨーク』で描かれた「ダウンタウン・アスレチック・クラブ」(規格化された摩天楼の内部でボクサーが牡蠣を喰うような変なことが起こっている)の実践としてあるのだろう。CCTVで事務所としてはほとんど初めて高層ビルのプロジェクトに取り掛かる時に、『錯ニュー』を基にしたというエピソードが紹介されていて、そういう理論的な一貫性に魅力を感じる。あとヴィラ・ダラヴァがミースのファンズワース邸を二つ繋げて云々したいう話は、ミースについてあまり知らないのでよくわからなかったけど面白そうだ。

あと、今回初めて観た特典映像で興味深かった部分。コールハースと学者が対談するのだが、開始時点から明らかに微妙な空気が流れている。議論の末にコールハースはこのように言う。

RK あなたと私の立場には根本的な違いがあります。あなたは主体的に考えられるが、私は他人の道具としてしか考えられない。私には顧客が必要なのです。

学者 私には読者が……

RK 顧客とは性格が違う。(あなたは)読者の下で働いていない。読者が決めた方針に従ったり、望みに応えたりする必要もない。私たちの立場には大きな違いがあるのです。(…)とにかく――建築家の仕事においては、経済が公的なものとの関係をすべて遮断しています。建築家は国家や都市ではなく、民間人や民間企業のために働いているのです。つまり建築家と公共の利益のつながりは切断されている。私たちが善人でいるのは悪人になりたくないからです。

最近考えていたのは、僕が最近建築に興味を持っているのは、建築というジャンル(?)が、映画や小説やetcに比べて、社会(それを公共性と呼んでいいのかはわからない)に足を下ろしているからではないかということだ。めんどくさい話になるし眠くなってきたので割愛するけど、そのことは「衣食住」に建築が含まれることひとつ取っても妥当ではないかと思う。しかしコールハースは逆に、建築家「こそが」公共的なものと切断されていると言う。そのギャップには、彼の言う「¥€$(YES)体制」に表れた市場原理への問題意識があるわけだが、のみならず『1995年以後』で藤村龍至が述べていたようなヨーロッパの空気感(日本に比べて政治と建築との関係が重視される風土)が影響しているようにも思える。ここでの仮説は、言わば、「欧米では映画や小説が(対談で話題にのぼっているのは思想書だが)普通に公共的であり得る。しかし建築家は目の前のクライアントを相手にしなければならないのでその間に経済が入り込んでしまう(ので、公共性から切断されているように感じる)。対して、日本では何もかもが普通に公共的では有り得ず、社会性を持ち得ないので、むしろ間に経済の入る建築が、最も公共性に繋がりやすい(ように見える)のではないか」という、大ざっぱに言うとそういうものだ。同時にこのギャップには、僕が大ざっぱに捉えている公共性とか政治性みたいなものが、一般的にはそれ公共性じゃないだろうという前提の違いもあるだろう(東浩紀的・グーグル的な公共性を自明化しすぎている)。コールハースの言う「悪人」とは、要するにネオリベのことなのかもしれない(一方で、コールハースはアイロニカルにネオリベ的なものを肯定している)。この点についてはボチボチ考えてみたい。

最後に不満点を。この映画で取り上げられるのはベルリンのオランダ大使館(というかこれがほとんど)とかカーサ・ダ・ムジカ(靴の形。住宅案をそのまま移植)とかボルドーの家(床がエレベーター)とか当時はまだ完成していなかったCCTV(ループする超高層)とかで、僕のコールハースの実作への興味はラ・ヴィレット公園のコンペ案とかシアトルの図書館とかドバイの回る超高層の案(これは撮影当時まだ始まってなかったかもしれない)とか、何よりフランス国立図書館のコンペ案に拠るところが大きいので、その辺り全然扱ってないのは痒いところに手が届かない感じだった。あとプラダのプロジェクトについては少し触れられているのだが、AMOのリサーチについてもっと踏み込んで紹介してほしかった。『建築文化』のコールハース特集でも結構まとめられてたけど、どこかの雑誌が本格的にまとめてくれないものだろうか。とはいえそんな特集をする雑誌がそもそもないので、結局英語とか勉強しろということなのでしょう。
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