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建築・都市におけるコンテクストとリサーチについてのメモ

随時更新。

日本建築学会・編『建築系学生のための卒業設計の進め方』

都市部では住宅地,商業・工業・農業・漁業等の生業発生ゾーン,平地・丘陵地・河川・海・湖沼等の自然環境ゾーン,これら相互の境界(エッジ)や借景となり得る風景,自然景観・人工景観に着目することが,都市・地域・場所の構造・文脈。特異性を読み解くうえでのヒントになる。(31p)

調査内容としては,既存建築・工作物の位置,敷地・道路・建物の面積・長さ・高さ,交通インフラ,方位,日陰,周辺建物・公共施設・公演・オープンスペースの活用状況,植裁・緑地の場所や量,さらに周辺地域と相互に関係する風・熱・空気・光・音・電気・振動等の環境要因も分析したい。都市計画区域であれば事前に都市計画地図で用途地域や法規制を確認しておくとよい。(…)
なお,隣接敷地はいつまでも同じ状況とは限らないので,敷地周辺の将来予測をする視点も重要である。対象地および周辺の界隈性・雰囲気をとらえるため,私的領域から公的領域に表出する物・看板・仮説工作物等に着目し,公的領域と私的領域の境界を判定してみるのもおもしろい。対象地周辺の人の流れ・滞留状況,さらに観察される行為・行動等を併わせて把握することも場所の性格を明らかにするうえで重要である。(31p)

敷地・周辺状況のリサーチポイント
・敷地に実際に足を運んで現地をくまなく歩く。
・気づいた点をメモしたり、スケッチ・写真撮影する。
・時間・曜日変動をとらえるため、日時を変えて何度も見に行く。
・地形や周辺地域の文脈を読み解く。
・人の流れ、溜まりを観察する。
・交通インフラ(最寄駅、バス停等)を調べる。
・周辺道路の車の流れ、溜まりを調べる。
・敷地の方位、周辺建物の日影を確認する。
・周辺公共施設、オープンスペースの立地状況を把握する。
・敷地周辺からの影響(風・光・熱・空気・水・音・電気・電波・振動等)を考えてみる。
・隣接敷地の将来的な変化をイメージしてみる。(31p)



ロバート・ヴェンチューリ『ラスベガス』

建築家は、周囲の環境をありのままに受け入れることには不慣れである。それというのも正統な近代建築は、革命的とは言えずとも進歩的であり、ユートピア志向であり、非常に純粋だからである。だから彼らは既存の状態には不満足なのであり、それゆえに近代建築は包容力を欠いているのだ。建築家はすでにあるものを愛するよりは、既存の環境を変えることを好んだ。(24,26p)



ART and ARCHITECTURE REVIEW ダン・グラハム「都市空間の可能性を引き出す」

アトリエ・ワンはヴェンチューリと篠原一男の影響を受けています。彼らは混沌とした状態に興味を持っており、篠原は都市の混沌を、ヴェンチューリは郊外における混沌を対象としています。
(…)アトリエ・ワンはエコロジーの問題に対してとても真剣に取り組んでいます。私がアトリエワンを好きな理由は、かれらの作品から豊な文脈が読み取れるからです。それはヴェンチューリを思い起こさせます。篠原一男が内側に向かっているとしたら、アトリエワンは外側に、コンテクストと関係性を創っています。



五十嵐太郎「ユニット派あるいは非作家性の若手建築家をめぐって」

アトリエ・ワンとみかんぐみの相違点は何だろうか? 曽我部は、建物周辺の敷地や環境との関係性に注目する要因として、坂本の影響が大きいと筆者に語ったことがある。アトリエ・ワンも、建築の外部とされる領域への関心が高い。だが、両者のアウトプットは違う。塚本と曽我部の対談がその差異を明確に示している。前者は「設計における取材」で発見された問題を「定着」させるのに対し、後者もトピックを集めるために取材をするが、「つくり手の価値を押しつけて、事実をねじ曲げてしまうことを恐れて、物の見方はできるだけヒエラルキーがない状態」にするために網羅的な「報告書」に近い。確かに、アトリエ・ワンの「環境ユニット」は、周囲から幾つかのエレメントを恣意的に選ぶ。一方、曽我部は、何かを切り捨てる「わかりやすい表現」を拒み、「結果として、それがいままでの制度的なものと類似していてもかまわないというスタンス」をとる。
アトリエ・ワンは、「トーキョー・リサイクル計画」や「ペット・アーキテクチャー」の展開からうかがえるように、雑誌や展覧会などのメディアの活用が巧みである。また日本の建築をとりまくメディア環境にも意識的だ。「メイド・イン・トーキョー」のプロジェクトは、海外の視線も意識した綿密な建築のマーケティング戦略に基づいたものにほかならない。筆者はオリエンタリズムの逆利用として批判したことはあるが、日常風景から問題を抽出する手つきの鮮やかさと短い期間における生産性の多さは評価すべきだと思う。彼らは、これまでゴミとみなされたフィールドから豊かな情報をつむぎだす。
みかんぐみは、施主とじっくり話しあいを行ない、なるべく多くのパラメーターを設定し、それらを等価に扱いながら、突出したコンセプトを可視化する建築的な表現を避けている。この感覚は、コンピュータの長所である情報処理能力を活用し、膨大な数値を計算させるのと似ていよう。近代の建築が世界を単純なものに還元し、明快な幾何学形態をデザインしたとすれば、みかんぐみはおそらく世界が複雑であるというモデルをもち、複雑さをそのまま建築化させようとする。サイバーアーキテクチャーが複雑に変容する多数のデータをもとに生成され、はっきりした形態を崩すのと類似した感性である。
ともあれ、建築の周辺環境に注目する傾向は、「三〇代建築家三〇人による三〇の住宅地」展にはっきりと表われていた。住宅「地」を強調したように、模型で敷地の周辺も入念につくりこみ、各作家の環境へのさまざまな考えが浮かびあがる。



空間から状況へ

彼ら(引用者註:「空間から状況へ」展に出展した60年代生まれの建築家たち)の態度は、以下のように要約されるだろう。建築を「空間」的な造形に還元し、オブジェクト化するのではなく、建築の外部に注目し、周辺の「状況」との関係を含めて再定義すること。過去を切断する前衛派の混乱でもなく、過去に回帰する保守派の秩序でもなく、差異と戯れる個性派の饗宴でもなく、都市のリアルをつかまえ、デザインに接続すること。



山中新太郎「アトリエ・ワン:〈状況〉との距離」

アトリエ・ワンが観察する対象を「コンテクスト」と呼ぶのは誤りであろう。彼等はコンテクスチュアリズムとは一線を画している。彼等が目をつけるところは「コンテクスト」の範疇を超えた〈状況〉である。〈状況〉はよりリアルであり、具体的であり、広範である。彼等は都市の文脈に興味を示しているのではない。目の前にある〈状況〉を見ているのである。それは、俯瞰的な視点でも抽象的な視点でもない。自らに近接した〈状況〉を問い直し、さらにその先の建築的な可能性を探っているのである。これが、アトリエ・ワンの〈状況〉に対する「立ち方」である。



10+1 web site 五十嵐太郎「グローバリズムのアイコン化に抗して」

藤本壮介と石上純也は、新しい原理をつかみだそうとしている。ユニット派が個性を主張しなかったとすれば、彼らは天才肌のキャラクターをもつ。アトリエ・ワンやみかんぐみが都市の観察やフィールドワークをもとに建築を組み立てるのに対し、藤本や石上はそうした敷地や環境などの外在的な条件から説明するよりも、建築の原理そのものを先に伝えようとする。ユニット派の世代については、2001年に『空間から状況へ』という展覧会が開催されたが、今度は「状況から原理へ」である。ねじれたトポロジーの空間を原理的に追求する平田晃久にも、同じような態度が認められるだろう。



大西麻貴+百田有希「マカロニは食べるからすごい」(藤村龍至+TEAM ROUNDABOUT『1995年以後』)

大西:私たちが藤村さんに聞いてみたいことは、何を「社会」と設定するのかということです。私たちは、まず自分の半径30メートル以内のことから「社会」を考えようとしていて、それに対しては自分で建築をつくったら責任をとるということができると感じます。(387p)

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コメント一覧

sonoda

あさのさま、べっしょさま

ご無沙汰しています。そのだです。
お二人ともお忙しくされていることと思いますが、「ほんちく」のほうはどうでしょうか。この間、こちらからブログを久しぶりに見せてもらいました。「キャラをあしらったデザイン」や、「磯崎新の日本論」など、面白そうなことをやっていて、僕も参加したいなあとうずうずしています。
日本へは、二月の初旬に戻ります。カメルーンの滞在も、いよいよ後半にさしかかって、さあがんばるぞと気持ちを新たに、これから調査地の村に、再び入ろうというところです。村には、電気も水道もありません。ただ、こちらの携帯電話は入るけどね。電気も、電線は通っていないけれど、発電機を持っている家庭があります。
さて、調査に来ておきながら調査とは何の関係もない話をはじめますが(といいながら、これは僕の常とう手段ですが)、村での印象的な体験のひとつが、ジャッキー・チェンの映画を観たことです。村のほとんどの住宅は、土で壁を盛り、ヤシの葉を重ね屋根にするという、日本からすればそれは粗末なものですが、まさかこんなところまで来て、テレビでジャッキーチェンの映画を観賞するとは思いもしませんでした。ことのいきさつを説明すると、カメルーンでは、フランスから輸入されたと思われる古い映画をDVDに焼いたものが、町の路上のいたるところで、安値で売られています。カメルーンの共通語のひとつはフランス語なので、ほとんどがフランス語の吹き替えになっています。だから、ジャッキーも映画の中で流暢なフランス語をしゃべるのですが。村の人の中にはもともとそこに住んでいた人もいますが、町から移り住んで来た人もおり、そういった人がテレビやDVDデッキを持ち込んで、村の人たちと一緒に見ているという事情なのですが、まさか狩猟採集民バカ・ピグミーの人たちと一緒に映画を観賞するとは思ってみませんでした。ちなみに、このDVDを持ち込んだ人はピグミーと呼ばれている人達とはまた別の「民族」の人です。
とにかく、ジャッキーのカメルーンでの知名度はすごい。僕が町を歩いていると、中国人と勘違いしているカメルーンの人たちは「ジャッキー、ジャッキー」と声をかけます。これは町中にとどまらず、遠く離れた熱帯雨林が生い茂る村の中でも同じです。子供たちは、もうだれもがジャッキーのとりこで、毎日毎日カンフー(功夫)のまねごとをしては、昨夜見た映画のことを話しています。アジア人は誰もがカンフーを知っていると大きな勘違いをしているある男は、いつかこっそりと僕に「そのだ、たのむから俺にカンフーを教えてくれ」と懇願していました。僕はふたつ返事で、「…わかった」と告げました。当然、僕がカンフーを知るよしもありません。この事態はおそらくカメルーンに限らず、ほかのアフリカの国でも同様だと耳にします。こういったわけで、僕もジャッキーチェンという存在に、だんだんと関心が向くようになりました。
ジャッキーの映画は、小学校の時か、金曜ロードショーや日曜洋画劇場で見たきりで、昔は面白いと思ってみていたものの、いつのまにか忘れてしまっていました。そんななかで、今再び見てみると、面白い。昔はそんなこと考えもしなかったのですが、彼は中国に連綿と続くカンフー映画の歴史に、ひとつの大きなターニングポイントを設けたのではないかと思います。その村では古いカンフー映画も同時に見る機会があったのですが、もっとも大きく違う点は、ジャッキーのそれには「笑い」があることです。古い映画のカンフーは、ほとんどまじめ一貫というところで、憎き悪を倒すことだけに注意が集中していますが、彼のそれには逐一「笑い」が混ぜられています。たとえば、彼は一連の俊敏なカンフーで、相手をなぎ倒すと、とどめにお尻で相手を吹っ飛ばしてみたり、ときには高いところから落ちそうになる相手を、あわてて手をさしのべ助けてみたり。彼の動作には、これまでの映画にはなかったそういった「笑い」や「遊び」が多く含まれていることにすぐに気づきます。もちろん、カンフー映画を数多く見たわけではない現時点で、そう断定してしまうのも思弁の暴走にすぎませんが、しかし僕はそれに気がついたとき、興奮が抑えきれませんでした。その後、町に帰ってインターネットなどで調べてみると、なんと、ジャッキーはバスター・キートンや、ハロルド・ロイドの身体動作をカンフーに持ち込んだという言説があるではありませんか。僕が知らなかっただけで、いまさらそれに気づいたのも手落ちですが、それでも彼がこれらの「道化」の流れをくむということには、まったく意識が及んでいませんでした。あさのくんとは、「道化道化」と、映画を持ち出してこれまでにもいくらか議論したことがあったにもかかわらず、ジャッキー・チェンについては一度も話したことがなかった。「道化の身体動作」(つまり、笑いを引き起こす身体の使い方って、いったいどういうものなの?)は、僕の中の大きなテーマのひとつですが、これはまたおいおい日本に帰ってから、話をさせてほしいと思っています。
ところで、こんなことをつらつらと、わざわざホンチクの紙面を使わせてもらって掲載するのにもそれなりの理由があります。それは、「ジャッキー・チェンの映画から、建築について考えてみるのはどうだろう」と、ふと思ったからです。彼の昔の作品はそれほどでもありませんが、比較的新しいものには、香港やパリといった都市を舞台に、アクションを繰り広げるものが数多くあります。たとえば、『ポリスストーリー(新警察故事)』『the accidental spy』や『ラッシュアワー』シリーズなど。たしかに、アクション映画なら別にジャッキーにこだわらず、ほかにもたくさんの都市を舞台にした作品があるとは思うのですが、ジャッキーにこだわる理由はなんだろう。
たとえば、スタントなしで手綱一本で、ビルの屋上から直滑降の姿勢で走り下りる(『新警察故事』)という、その「粗野な感触」(CGを利用しない実際のスタントなので、彼の肉体は、ビルの壁や、硬い道路、ガラスといった環境に、「実際に起こりうる反応」を示し、跳ねたり、くねったりする。何と言えばいいのか硬い道路の上に彼が打ちつけられると、「いかにも痛い」というのが伝わってくる感触)、その感触が、ほかのアクション映画とは一味違う様相を呈しているという気がします。(実際、後期の作品でCGが応用され、ありえないからだの動きをするものには、僕にはそれほど魅力が感じられませんが。)
では、こういった映画から「どのように建築を考えるのか」というと、彼は建物群のなか、オフィスビルの中でも、わざわざ道なき道をたどるのです。カンフーアクションの最中によくある、「敵に追う、追われるのシーン」でも、彼は建物のなかを上下左右、縦横無尽に動き回ります。これを見ていた時、僕は「建物のなかでかけずり回る彼の動線を辿って、そのままひとつの建物の動線に配分してみると(あるいは都市計画の動線に置き換えてみると)、なんだか新しいデザインが出来るんじゃないか」と、(相当くだらない)直観がしたのです。ぜひこういった視点から、一度見てほしい、そして議論してみたいと思い、思わず長々と書いてしまいました。

コメントの体裁で掲載しましたことを、お詫び申し上げます。どうしても管理画面に入ることができませんでした。
しかし、「建築・都市におけるリサーチについてのメモ」にはからずも、追記として掲載できたことは、なんだか面白いんじゃないかと、ひとり喜んでいます。

ほんちく!!

そのださま、

 ご無沙汰しています。あさのです。
 
 まずはお元気そうで何よりです。こちらでは、よくそのださんはいつ帰ってくるのかという話が出ます。特にもりさきさんとは、会ったら毎回そのださんの話をしています。そういえばこの間、彼と名古屋に行ったのですが、おじまさんも帰国を待望していました。

 ホンチクの方は、相変わらず(というか以前にも増して)参加者がいませんが、月イチくらいのペースで細々と続けています。先月から体制をかえて、べっしょくんの設計演習など実作に向けて、いろいろアイデア出しをする会になったのですが、話題があっちこっちに飛ぶ、ちょうどそのださんの話みたいな(笑)感じでとても面白いです(少なくとも僕は)。帰国の折には、是非ともそのだ節を振るって頂きたいと思います。

 お話ししたいことはたくさんありますが、長くなりそうなので日本に無事ご帰国なさってからにするとして、取り急ぎジャッキー・チェンの話にはなるほどと思いました。僕も昔テレビで観ていた程度ですが、ジャッキーがキートンらの系譜の先にいて、それが「道化的」であるというのは、言われてみれば得心がいく気がする。

 テキトーな思いつきをひとつ言うと、NGシーンを見せることが重要なんじゃないかと。そこでは、本編(ストーリー=ひとつの文脈)で「超人的身体(ダイ・ハード)」として存在するジャッキーの身体が、僕たちと同じ「情けない身体」として表象される。作品外で露出狂的に舞台裏を開陳するジャッキーは、結果的に作品内の自らの身体に両義性を与えている。そうして、プロットの都合上ヒーローとして振舞わざるをえない自分を、絶えず相対化しているのかもしれません(深読み)。建築との関連についておっしゃっていることは、実際ちゃんと観てみないとわかりませんが、この話も帰ってきてからしたいですね。しかしまさかカメルーンに行ってる人からジャッキーの話が出てくるとは思わなかった。

 そういえば、最近本を読んでいて、ピグミーに関する記述に出会うことが多い気がします(そのださんの話が頭にあるから目に付くだけかもしれませんが)。たとえば、この前読んだイーフー・トゥアンの『空間の経験』という本には、こんなことが書かれていました。

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 ほとんどどこにいても人間は二種類の空間、大地と空を区別する。ところが、この点でコンゴのピグミー族は例外である。うっそうとした森林に囲まれて生活しているピグミー族にとっては、「大地」と「空」の区別は知覚の手がかりにはならないのである。(…)多くの社会は、循環する時間の尺度として太陽や月を用いているが、ピグミー族には、これらの天体もめったに見ることはできない。植生のために、ランドマークはすべて見えなくなっている。ピグミー族は背丈が低いので、立っていても自分の眼の前の空間を見渡すことができない。(…)ピグミー族は、対象の見かけの大きさを無意識のうちに距離に換算する技術を習得していないために、たとえば、遠くにいる水牛を非情に小さな動物だと思ってしまう傾向がある。距離というのは、長さと違って純粋に空間的な概念ではない。距離には時間の概念も含まれるのである。
 (…)森の人びとは、四季のリズムとはほとんど無縁であるために、一日一日が積み重ねられていくあいだに経過する時間を表す尺度も、そのような時間の概念ももっていない。ピグミー族が知っている次官の広がりは限られたものなのである。かれらは、多くの動植物については詳細な知識をもっているが、人間は人生のなかでいくつもの段階を踏まえながら成長していくということには、ほとんど留意しない。時間は知覚された距離と同様に浅く奥行きがないものであって、ピグミー族は、過去の系図にも未来にもあまり関心を示さないのである。
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 この部分を読みながら、前にそのださんが話してくれた、一日中ぼーっとしてられる人の話を思い出していました。これは70年代後半に書かれた本だそうですが、ジャッキー・チェンのDVDが観れるくらいなら、その村に住む人の知覚の在りようも、今ではずいぶん様変わりしているのでしょうか(というか、コンゴとカメルーンでも違うのかもしれませんが)。いつかお話しした、マクルーハンが『メディア論』で引いてる話、アフリカの原住民に劇映画を見せても(線的な時間の流れに慣れていないので)話の筋がまったく理解できなかったという逸話が思い起こされます。




……とか、いやそんなことより、充実したリサーチを終えて、どうぞご無事でお戻りください。待ってますマジで。いろいろお話ししたいトピックが貯まっています。ジャッキーの映画、観ておきます。

 2月にそのださんがどんな変貌を遂げて帰ってくるのか、楽しみにしています。それでは、お元気で。

sonoda

>本編(ストーリー=ひとつの文脈)で「超人的身 体(ダイ・ハード)」として存在するジャッキーの身体が、僕たちと同じ「情けない身体」として表象される。

そう言われてみると、エンディングのスタッフロールが流れるシーンではよく、NGシーンが流され、何度も難しいスタントに挑戦するジャッキーたちの光景を見ることができますが、加えて本編の中でも、よく強い者にうちのめされる「弱い」姿が映し出されます。その後は徐々に強くなっていくという成長物語もあるけれど。

>時間は知覚された距離と同様に浅く奥行きがないも のであって、ピグミー族は、過去の系図にも未来にもあまり関心を示さないのである。
この一文、面白いね。
ありがとう。僕も、帰ったらたくさんしゃべりたいことがあります。空と大地を区別しないという話ですが、これについては彼らと過ごすなかで、同じことを感じたことがありました。森の中にある彼らの村では、夜になるとたくさんのホタルが飛んでいるのをよく目にしますが、なんと彼ら(ピグミーと呼ばれる人々にもさまざまな種族?がありますが、ここではバカ・ピグミー)のことばで、「星」と「ホタル」は、「ゲレム」という同じ言葉でくくられます。

>いつかお話しした、マクルーハンが『メディア論』で引いてる話、アフリカの原住民に劇映画を見せて も(線的な時間の流れに慣れていないので)話の筋がまったく理解できなかったという逸話が思い起こされます。

「残念ながら」というと彼らに失礼ですが、映画をずいぶん見慣れてしまっているように見える若者からは、あまりそういった感覚を見出すことはありませんでした。つまり、彼らの視聴態度からは、話の筋をよくとらえている、という感覚が垣間見える。もちろん、彼らの父母や祖父母の世代になるとわかりません。ひょっとしたらそうかもしれません。なぜなら、僕のいる村はつい40年程前にできた村で、それまでは森の中にキャンプを張って移動しながら生活していたといいますから。でも、ひょっとすると、話の筋がいまや分かっているのは、その映画を何度も観てきたからかもしれません。では、どうして僕が、「この人たち筋わかってるんじゃないか」と感じたかというと、あるアクションシーンで、見方のある女性が、敵に囲まれてもう絶体絶命だというところで、あるピグミーの男が「天井からあいつ(カンフー映画主人公の青年)がやってくるぞ」と、ぼそっとささいたからでした。まあ、でもこれだけではたしかにわかりません。僕もそのマクルーハンのエピソードをよく思い出していました。ほかにも何か彼ら独特の視聴態度はないだろうかと、映画を横目に僕は彼らの反応ばかり気にしていました。あと、覚えていることでおもしろかったのは、やはりカンフー映画の一コマで、主人公が古来から伝わるカンフーにまつわる巻物をひもとき、「猿」をモチーフにしたカンフーをはじめるのですが、映画の中でそれについての説明がなかったにもかかわらず、彼が左足の裏をぴんと張った右足につけ、片足で立ち、次に右手を、何か遠くのものを眺めるような格好で、おでこにつけた瞬間、やはりそれをみていたあるピグミーの青年が、「あ、猿・・・」とつぶやいたことでした。猿のジェスチャーが、海を超えて、彼らにも理解されるということがわかったとき、「ああ、やっぱり人間て同じなんだなあ」と、妙に感心しました。
しかし、やはり「僕ら」とは圧倒的な視聴態度のちがいは、「黙って見ない」ということです。彼らは椅子にすわったり地面に寝転がったりしてひとつの小さなテレビを十数人で囲んでいるわけですが、常に誰かが立ち歩いて酒やたばこを買いに行ったり、ぺちゃくちゃと、いままさに見たシーンについて語り続けています。部屋の中は無秩序そのものです。たしかに、僕たちもテレビを見る時には、たまにそういうことをしますが、その態度に近いですね。本物の蛇が画面や、惨殺シーンが映っては、不快感をあらわにした顔で、「yiooo・・・」と驚きの声を漏らし、リズミカルでアップテンポなカンフーアクションがはじまると、一斉に「いけ、そこだ、Très bien !」と、大盛り上がりです。映画観賞でこれほどにまでに盛り上がるという空間にいまだ足を踏み入れたことのなかった僕は、アクションシーンでとどめの一撃がきまった瞬間の場内の盛り上がりに、感じたことのない気持ちよさを覚えました。この特別な村の劇場(先述したように、ただの土壁の小屋です)は、新世界の国際劇場でもあり、新歌舞伎座でもあり、そして甲子園でもありました。こんな大騒ぎの大好きな彼らに、ヴィクトル・エリセや、たけしの映画を見てもらったら、どういう反応をするのだろう、とも考えました。別に面白いこともなんともなくて、眠り込んでしまうだけなのかな。そう考えると、たしかに彼らは映画全体のつながりなど別に気にはしておらず、たとえば歌舞伎の見得を切るシーンのように、盛り上がる部分だけを待っていたり、コマとコマのつながりなど考えず、ただ、そこに次々と映し出されていくショットをひとつひとつ、まるで写真のアルバムをめくるかのように楽しんでいるのかもしれません。そういうことが証明できたら面白いなあ。
カンフー映画としての「やくざ映画」
次の話は視聴態度ではなく、おおげさにいえば日本文化論への切り口になるのではないかと思った点を二つ挙げます。ひとつは、この中国由来のカンフー映画に匹敵するのが、日本でいうところの「やくざ映画」ではないか。カンフー映画とやくざ映画の違いはなんだろうか。
カンフー映画としての「戦隊もの」
ところで、古いカンフー映画(年代は不明だが、60年代、70年代といったところだろうか)を見ていると、気づいたことがありました。それは、後期のジャッキーのように、町を舞台にしてアクションを繰り広げるというのではなく、たいていのアクションシーンが、何もない、地面が土で、遠くの方に、山や海が見える丘などの「人里離れたどこかの空き地」で撮られていることです。これを見ていて思い出したのが、日曜の朝9時の顔である、「戦隊もの」です。いまではもう見ることがなくなってしまった、「なんとかレンジャー」もののアクションシーンを、これらを見ていた時ふと思い出しました。そっくりなのです。もちろん、アクションの質の違いは当然あるでしょうが、両者には何か通底するものを感じます。カンフー映画が、道着やらカンフーファッションに身を包み、立ち回りを繰り広げるとしたら、戦隊ものは、道着から無機質で硬いメタルで覆われたスーツに衣装を替えて、同じ立ち回りを繰り広げる。もしかすると、「このモビルスーツがあることによって、カンフーアクションの日本への輸入が可能になったのではないか」とふと思ったのですが、そうだとしたらそれがなぜなのか。ここから、日本人の身体性というか身体の使い方に、何かアプローチできるのではいかと思います。
思わせぶりな発言ばかりで答えがありませんが、以上が映画を見ていて感じたいくつかの雑感です。こんなことも、帰ったらぜひ議論したいです。

追記ですが、ネット上で興味深い文章を見つけたので、ご紹介しておきます。西原康行という方の「身体知研究の素描と課題―身体のコミュニケーションと身体技法を中心に―」という論文ですが、人類学、心理学、社会学分野にわたる主要な身体論の経緯が細かにまとめられています。マクルーハンについても触れられていましたので、興味があれば一度見てみてください。紹介されている参考文献がどれも面白そうなものばかりです。

asano

 このところちょっと忙しくて返信遅れました。すみません。

 ピグミーが「星」と「ホタル」を同じ言葉でくくっているという話はとても面白いですね。

 僕は今、4回生にもなってフランス語の再履修クラスに出ているのですが、先生が前にこういう話をしていました。英語やフランス語では、普通の椅子に座った人を示す場合、「on(sur)」を使って表現するが、ひじ掛け椅子に座っている場合には「in(dans)」で表現する。あるいは、平らな皿にのっているものは「on」で表現するが、縁が盛り上がった皿の場合は「in」を使う。

 そのださんは僕の百倍くらい英語とかフランス語とかできそうなので先刻ご承知の話かもしれませんが、このことひとつ取っても、西洋圏に住む人々と日本人のあいだで、空間把握に大きな違いがあるのだろうと推測できます。何しろ、僕たちが「上」だと思っているものを、彼らは「中」として捉えているわけですから。

 これは、建築について考える上で使えそうな話です。磯崎新は『建築における「日本的なもの」』のなかで、日本論を突き詰めていくと(だったかな?)、最後には語源(「語根」と表現しています)に遡ることになるという話をしていました。

 おそらく言語は、何かを記述証明する材料(サンプル)としてわかりやすい、ということなのでしょう。それはおそらく、「記述自体が言語によって為される(サンプルとインターフェイスに互換性がある)から」かと思われます。逆に言えば、「身ぶりというサンプルをもとに、言語によって何かを記述する」という方法は、その互換性がないぶん険しい道のりになるだろうと想像します。

 ところで、忙しいのはゼミ発表の準備をしているからなのですが、その中で読んでいたベンヤミンの「複製技術時代の芸術」には、「視覚的無意識」という言葉が出てきます。

 僕たちは日常生活の中で毎日歩きますが、その時自分がどんな風に歩いているのかは知らない。自分が歩く姿を意識する必要はないからです。しかし、意識のないカメラは対象を平等に映しとるので、その「どんな風に」の部分、つまり視覚的な無意識を明らかにすることができる、という話です。

 ベンヤミンはこの発見を、映画と同時期に登場した精神分析になぞらえています。いわく、

「精神分析によって無意識の衝動を知るように、ぼくらはカメラによって初めて、無意識の視覚を体験する。」

 精神分析が、日常的には聞き逃されるようなちょっとした言い間違いや言葉尻を拡大する(映画がクローズアップやスローモーションで視覚的細部を拡大するように)ことでコミュニケーションに隠された深層を浮き彫りにするのと同じ構造を、ベンヤミンは映画が切り開いた新しい知覚の地平に見たようなのですが、ここで重要なのは、ベンヤミンの言う視覚的無意識が、あくまで「細部」であって「一部」ではないということです。

「クローズ・アップは、「どっちみち」ぼんやりとなら見えるものを、はっきり見せるだけにはとどまらない。むしろそれは、物質のまったく新しい構造を前面に押し出してくる。同様にスローモーションは、運動の周知の諸要因を明確に映し出すだけでなく、これら周知のもののなかから、まったく未知のものを発見させる。(…)カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは違う。」

 要は、「一部」は全体に対応し全体に属しているが、「細部」は全体とはまったく別の次元に位置している。ということです。いわば視覚的無意識は、全体のなかにありながら全体に収まりきらない「ノイズ」のようなものとして存在している。

 話を戻すと、僕はこれを読みながらなんとなく、そのださんが取り出そうとする身ぶりとは、ここでの「細部」に当たるのではないかと考えていました。もしそうなら、問題は、いかにして(カメラの登場がそれを可能にしたように)そのような「細部」を拡大し、取り出すかということになるのではないでしょうか。

 フロイトは、分析医は意識によって患者の無意識を取り出すのではなく、意識を介さず、無意識と無意識で交信するべきだみたいなちょっとオカルトっぽいことを言っています。

「分析医は、患者の提供する無意識に対して、自分自身の無意識を受容器官としてさし向け、話者に対する電話の受話器のような役割を果たさなければならないのである。受話器が音波によって、電線上に生じた電流の振動を、ふたたび音波に変化させるように、分析医の無意識は自分に報告された患者の無意識の派生物から、患者が思い浮かべた事例(連想)を決定している無意識そのものを再構成するのである。」(「分析医に対する分析治療上の注意」)

 要するに、無意識を取り出すときはマシーンになれということだと思うんですが……ここでもまた思わせぶりなことを言うだけで答えがないんですが。

「複製技術時代~」の「視覚的無意識」について語っている部分には、関連して道化に関する記述もちょっと出てくるので、この話もいずれしたいです(たとえば、昨日読んでいた中村秀之『瓦礫の天使たち―ベンヤミンから〈映画〉の見果てぬ夢へ』という本には、タイムリーにも『プロジェクトA』がロイドの『要心無用』にオマージュを捧げているという話が出ていました。その記述のある第三章のタイトルは「重力の天使たち―ロイドとチャップリンにおける身体・視線・都市」、五章のタイトルは「資本主義の道化」です)。


>しかし、やはり「僕ら」とは圧倒的な視聴態度のちがいは、「黙って見ない」ということです。彼らは椅子にすわったり地面に寝転がったりしてひとつの小さなテレビを十数人で囲んでいるわけですが、常に誰かが立ち歩いて酒やたばこを買いに行ったり、ぺちゃくちゃと、いままさに見たシーンについて語り続けています。

 そういえば実家に戻ると、よくテレビドラマを見るように薦められます。「絶対面白いから!」というのでみるのですが、僕がテレビの前に座っている間、薦めた当人はあっち行ったりこっち行ったりしてほとんど観てない。けれども、たぶんそれがテレビを観る態度として多数派なのだろうと思います。テレビを作っている人たちは、こういう態度の視聴者を想定しながら、どんなことを考えてテレビを作っているんだろう。

 マクルーハンは西洋人もどんどんアフリカ原住民のような映画視聴態度になっていく(話の筋=プロット=線的な物語に対して不感症になっていく)と言っていますが――そしてそれはネットの出現によって加速したように見えます――だとしたら、どのような物語が作り得るのでしょうか。物語なんていらないんじゃないか。前にお付き合い頂いた四コマ漫画の話は、そんな興味のもとにあったのですが(そのださんには「物語がない」という言い方をツッコまれました)、ではその時物語の代わりに前景化するのは何か。それはジェスチャーなのでしょうか? 僕たちもまた、「コマとコマのつながりなど考えず、ただ、そこに次々と映し出されていくショットをひとつひとつ、まるで写真のアルバムをめくるかのように楽し」むようになるのでしょうか? そういう話がしたくなってきました。早く帰ってきてください。


>古いカンフー映画と「戦隊もの」の共通点の話

 そういえば、『ミッション・インポッシブル』の第一作と第三作の監督はアメリカ人(ブライアン・デ・パルマとJ・J・エイブラムス)ですが、第二作は香港からハリウッドに渡ったジョン・ウーが務めています。で、第二作だけ妙に画面がスカスカで、空き地みたいなところで戦っている(笑)。関係あるかわかりませんが、ひょっとすると洋の東西の違いなのかもしれません。

 昨日『香港国際警察』を借りてきたので、明日発表が終わったら観ます。

asano

追記

 上のコメントについて、ひょっとすると見当違いなことを言ってるのかなという気がしてきました。その違和感について手短に記しておきます。

 自分で言い出しておいて何ですが、身体論で取り上げられる「身ぶり」と、「視覚的無意識」はやっぱり別のものなのかもしれない。

 人間の多くの身ぶりは、普段は意識されない(言語化されない)という意味においては、全体からこぼれ落ちた「細部」と言える。

 しかしそんな「細部」を言語に分節した時点で、それはもはや無意識とは言えない「一部」でしかないのではないか。「視覚的無意識」は、原理的に、言語を持たぬカメラによってしか取り上げることはできないのではないか。

 今までにも何回か出たような話ですが、取り急ぎ。

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