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陰翳礼讃

先に陰影礼讃を読み終わったのでそっちのまとめをば。


陰翳礼讃 (中公文庫)陰翳礼讃 (中公文庫)
(1995/09)
谷崎 潤一郎

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陰翳礼讃
谷崎潤一郎著
中公文庫
1975年10月初版発行
1995年 9月改版発行

昭和8、9年に「経済往来」にて掲載された随筆。
建築や日本的なデザインを考える上でしばしば引用される。
当時の日本人の価値観、生活、美に対する著者の独自の感性等、
デザイン的な側面以外も注目するべき部分は多い。

以下、要約

 日本的な美の重要な要素に「陰影」が挙げられる。
 日本人は近頃(当時)は西洋文明の利器を用いるが、西洋文明は西洋の文化の土壌の上に成立したものであるから、
もし、日本に文明の利器が輸入されなかったとすれば、日本の文化の上に成り立った、日本人に適した文明が出来上がったのではないだろうか。
 西洋人はモノ光沢に価値を見出すが、日本人、東洋人は光るものを嫌う。日本人は光よりも闇を好むのである。
 西洋の家屋にはもちろん屋根があるが、それは雨を凌ぐためのものであり、日光を内に取り入れるための配慮がなされている。そのため庇が無い。
一方で日本の家屋は横殴りの雨を防ぐ必要があったため、庇が深くなり、屋内は闇の空間となった。
しかし、日本人の祖先はその闇の中から美を見出してきた。

 例えば漆塗りの食器は薄暗い空間で闇にまたたく蝋燭の光と非常に調和する。
活花や掛け軸はそれ自体が鑑賞品なのではなく、それらと床や壁との調和=「床うつり」が重要なのである。

われわれは何もないところに美を創造する。
美は物体に宿るのではなく、物体と物体の陰翳の作り出す陰翳のあや、明暗にあると思われる。



個人的意見。

ここ最近建築では「持続可能性」、「50年住宅、100年住宅」などのキーワードが盛んに現れる。
しかし、元々、日本住宅は持続可能なものであったのではないか。
日本人の価値観とは、元々は古きを良しとするものであった。それならば、伝統的な家屋を考察することが、これらのキーワードを考える上で大いに参考になるのではないか。


以上。

次は『都市はツリーではない』か映画の『アンダルシアの犬』について書きます・・・(笑)
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コメント一覧

sonoda

ある骨董屋の方から、このような話を聞きました。
西洋と日本の間では、器に対する感覚がまるで異なっている。
西洋の場合、時代がついて装飾がはげてしまったものや、かけてしまったものは、それをもとの形に修復しようとする。たとえば、日本で手に入れた木彫りの仏像があれば、その欠けた部分を探そうとするが、日本の場合、「もとの形に戻す」ということには、それほど関心はなく、それを現在の状態のままで飾るといったことが多いようです。
「西洋人はモノ光沢に価値を見出すが、日本人、東洋人は光るものを嫌う。日本人は光よりも闇を好む」とありますが、やはりそれとも共鳴しますね。<光る物><もとの形>と<色が重たい物><そのままの状態>という対比。
「光るもの」とは、そこからこちらに向かって何か訴えかけてくるような「個の主張のしようとする志向性」がそこに伺えそうですが、「闇のもの?、色調の暗い物」は、「その場との関係のなかに埋もれてしまおうという志向性」がありそうですね。

建築界では、「持続可能性」、「50年住宅、100年住宅」が昨今のキーワードになっているということですが、やはり重要だと思うのは、「その場所のその時点に応じて、建築がそれに対応した<形>に変わり続けていく」ということです。
「持続可能」(人間が居住するという意味で利用可能なものということでしょうか?)が長期にわたって維持されるとすれば、それがもとの形ではなく、環境の変化に応じて「変化し続ける」といったことが、(別に僕がたいそうに書かなくても)考えられることではないかと思います。さきほどの西洋と日本の骨董の扱い方の例から考えると、「持続可能」をどのように考えたらいいか。「もとあった形に建物を修復すべきか」(コンクリートが割れたから修復する、雨漏りが多いから屋根を修繕する)、あるいは「現在の状態を人間が受け入れるべきか」の、少なくとも二通りの、対応が考えられると思います。後者を受け入れるとすれば、「持続可能建築」を作り上げるためには、どのような建築物を作るかよりもむしろ、「われわれの感覚の転換」(ここでいう「われわれの感覚の転換」というのは、西洋的骨董の扱い方ですが)にも重きをおかなければいけないような気もします。
さらにもう一歩踏み込めば、「われわれの感覚の転換」を促すような建築も、考えられるでしょう。しかし、考えてみれば、このような考え方もこれまでにも長く議論されてきたのかもしれません。たとえば便所が建物の外にあって、雨の日は傘をささなければならない建物をあえて作ったり、一般的には「機能的」とはいえないようなもの。安藤さんや、毛綱さんの建物は、そういった思想から出発しているのでしょうか。

持続可能のためには、われわれの発想の転換の方が必要だというふうに上記では進めてきましたが、この発想もまだ一歩踏み込む議論の余地があるかもしれません。

アフォーダンス

最近、「アフォーダンス」という議論をよく耳にします。
アフォーダンスとは、佐々木正人さんによれば、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」(『知性はどこに生まれるか』)ということなのですが、たとえば、「水は、ぼくらに対して呼吸作用をアフォード(提供する:筆者注)することはない。水は飲むことをアフォードする」のだと言います。これは俗っぽく言えば、水が僕らに「俺んとこで呼吸なんてすんじゃない、俺たちを飲んでくれたらいいんだ」と僕らに言っているということになるでしょうか。行為だけを考えてみれば、ごく当たり前のことが述べられています。「水の中では呼吸はできないが、われわれは飲むために水を利用する」、ただそれだけのことです。ただし、重要なことは、おそらく「環境の中の主体は、何も人間だけではない」ということだということでしょう。なので、科学者が自然現象を科学するときに、何かの理論をあてはめて研究することを批判しています。アフォーダンスは、「ただ、起こった現象だけを見よ、そして書け」と言っているようにも聞こえます。
建築と人間の関係もまったく同じ事がいえるでしょう。人間だけが主体となって考えるのではなく、建築もまた主体として考える。では、建築物が僕たちに言っていることとは何か…。

(いつか、つづく)





べっしー

西洋人の建築家は日本ではほとんど使わない、原色を使ってみたり、コンサートホールでも座席によって色を変えてみるとか、日本人と対極とも言える色彩感覚を持っているように思います。その辺にも「個の主張のしようとする志向性」というものがあるのかもしれません。

ただ、「持続可能な住宅」(人間が利用可能だという意味で使いました)という言葉がひとつのキーワードになっているのに対して、イギリスやフランス等に行くと50年どころか100年以上も前に建てられた住宅が今も所どころで使われている。買った住宅が老朽化してくると、住宅のオーナーが自分の手で修復して、そうして上手く改修がされた家は改修前より値段が高い状態で売りに出されることもある。その辺り、西洋は古いものにも価値を見出そうとしている傾向はあると思うのですが、逆に日本人は家が古くなってくるとスクラップアンドビルドを繰り替えしてどんどん新しい家を建てている。この辺りの考え方の違いがどこから生じているのかが気になるところです。
核家族化などのソフト面なのか、地震力に耐えるためのハード的な面が原因なのか。

アフォーダンスについては詳しく理解していないのですが。

原始時代に人が洞窟に住むということは、洞窟が「居住」を人間にアフォードしたという事でしょうか。
建築家がどんなに頭で考えて計画をしても、目的外の使われ方をすることもあるし、思いもよらない部分に価値を見出される事もあるように思います。

昔の建築家は比較的そういう部分に自覚的で、例えば「寸法と向きは現地で決める」と設計図に書いてあったり、「手すりの形はロープを投げていい形ができたら参考にする」等を実践していた方もいたようです。自分の頭で考える事を絶対としていなかったというか。

高架下建築とか、古い団地の光景が一部の人に受け入れられるのは、計画という観点からは外れた良さが評価された物だと思います。

そして最近べっしーの周りにはそういう人が多くて面白いです(笑)

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