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ラスベガスと道化

読書会が終わった後も、浅野くんと僕はいろいろと話をしていた。僕にとっては、そこで思いがけない一つの結論がでた。『ラスベガス』は道化だったんじゃないか。だからこそ、これだけ(どれだけかよく分からないが)の影響力をもったのではないか。
道化ってなんだろう。さまざまな定義はできるだろうが、ひとまずその本質をつかむとすれば、思想を持たない者(あるいは思想を持っているのかもしれないが、本当のところは何を考えているのかよく分からない者)のことだ。あっち行っては、そうだねと相づちを打って、こっち行ってはこうじゃない?と口出しする。ああそうか、とその場所で時間が動きはじめたら、もう彼はそこにはいない。八方美人という言葉もある。それは道化を言い当てている言葉のひとつだろう。
ラスベガスには、たくさんの看板がごった返していた。色も種類もごちゃごちゃだ。もし、ラスベガスが一種類の看板で、埋め尽くされているとしたら、こうは話題にならない。一種類の看板で埋め尽くされている例として飛田新地が出てきたのだ。飛田新地には、向こう何十メートルとわたって、四角い白塗りに、文字が書かれている統一された看板がずらっと軒を並べている。それはそれで圧巻だが、ここで問題となっているのは、その場合、ある種の思想がそこに裏打ちされているということだ。それがどういう思想であるのかはさしあたりここでは問題としない。統一されていて、歩くには心地がいい。一気に何か別の世界にもぐりこんだふうになる。
では、ラスベガスはどうだろう。統一感から来る心地よさではなく、むしろ秩序のなさから来る心地よさがきっとあるのだろう。それを統一感といってかまわないが、やはりそれもここでは問題ではない。
ベンチューリがいいたかったことは、おそらくラスベガスのもつ特異さを持ち上げたかったのではない。むしろ。ラスベガスに反映されている私たちの態度のようなものに注目したかったのだ。
「ダブル・バインド」という言葉をご存じだろうか。グレゴリーベイトソンという学者によって提案された理論である。たとえば、入院しているお母さんのところに、子どもがお見舞いにやってくる。母は「おいで、おいで」と、子どもに優しい言葉をかけて呼び寄せる。ところが子どもは、それとは裏腹な母の態度に直観的に気が付いてしまう。母は、「おいで」といいながら、その手はどことなく子どもが寄ってくるのを拒否しているのである。子どもは、母が自分を避けていると、どことなく気が付きながらも、なおも彼女に近づいていくしかない。ここで彼女を拒否してしまえば、彼は母を苦しめることになり、なお彼の生活を圧迫していくことになるのである。ところが、彼がただ純粋に、母の言葉を信じて近づいていくことも、母を苦しめることになり、また彼の疲労が重なっていく。このように、近づくことも離れることも出来なくなってしまうような状態をベイトソンは、「ダブル・バインド」(二重の束縛)と呼んでいる。このような環境のもとで育つと、この子どもは成人して精神障害を引き起こすというのが、ベイトソンの論である。
これは他人事だろうか。ぼくにはそうは思えなかった。これを呼んですぐに感じたのは、世間と個人の関係だ。学校で僕たちは、「君たちは立派な一人の人間なんだから、自分の思うように好きにやりなさい」とたたき込まれる。ところが、学校もいかず、家でギターを弾いて一生懸命に打ち込んでいると、すぐに罰を与えられる。世間と個人の関係は、このように実はダブル・バインドなんじゃないかと、僕は考えるようになった。
ところで、なぜ道化の話から、ダブル・バインドの話になったのか。それは、世間と個人の関係がダブル・バインドであるとするなら、僕たちはもはや道化にならざるを得ないからである。さきの母と子の話で重要なのは、決して子どもが母を拒否してはいけないということ。子どもは母を拒否しては、もう生活してはいけない。それと同じで、個人は世間を真っ向から否定すれば、生活していけない。そこで、僕たちは、無意識のうちに道化にならって生活するようになっているのである。母が「おいで」といえば、「はあい」と、近づき、愛しているふりをしてしのぐ。先生が「ちょっと」と呼べば、「何ですかあ」と、笑顔で答える。もうそれしかないんじゃないかな。「おれはこいつが嫌いだ」とか言っていられない。どんな人にもニコニコニコニコ、そこにいたいとかいたくないとかは別にして、その場をうまく切り抜ける。つまり、その場にうまくなじんでいるふりをする。本当のことなんか言っちゃったら、生活できません。その八方美人の態度は、まさしく道化のそれなんだろう。お笑いブームはおそらくそれと関係がある(ただ、お笑いブームはしょっちゅう来ているらしいが)。
話を建築に戻そう。『ラスベガス』は、そういう僕たちがもっている「生き延びるための道化的特性」みたいなものを暴くことによって、近代建築に「この、嘘つき。かっこつけたがり!」っていうふうに、近代建築のエリート集団に食らいついたように僕には思えた。ここでいうウソというのは、「形態が機能に従っている」ということである。「本当は機能になんて従ってやいないじゃないか、機能に従うんだったら、看板にEATって描くのだって、機能に従ってるじゃない」というのが、彼のいわんとしているところだろう。そして、それが出来たのも、ラスベガスがもつ道化っぽさにあると思うのだけれど、それじゃあラスベガスの道化っぽさって何だろう。それが無思想を装っているところだろう。いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人なのだから、どこに思想の根拠があるのかよく分からない。思想の根拠が分からないということは、彼は敵なのか味方なのかもよく分からないから、攻撃しようにもできないということなのだ。それが道化の強さである。かくして、ラスベガスは近代建築に冷や水を浴びせえたのであろう。

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コメント一覧

asano

あえて反対意見を書きますけど、むしろヴェンチューリが発見したラスベガスは強固な思想を持っていたのではないでしょうか。思想というのは要するに経済合理性の追求ってことですが。

>いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人なのだから、どこに思想の根拠があるのかよく分からない。

と言われると確かにそうかなとも思うのですが、これは「形態は美学上の理念(思想?)を根拠にするものだ」という観点からの話だと思うんですね。実際、近代建築までは、少なくとも建前上、形態は美学的な理念(=機能主義、幾何学)を根拠にしていた。その観点からすると、確かにラスベガスには根拠がない。
しかしヴェンチューリがこの本で言ってるのは、ラスベガスにおいて「形態は(美学ではなく)経済合理性を根拠にする」という話なわけで、それは立派な「思想」なんじゃないかという風にも思うんですよね。

もっとも、美学→経済合理性というその落差をもって、(当時の人々にとって)ラスベガスが「無思想を装っている」「思想の根拠がわからない」ものだったと言うことはできるかもしれません。(ヴェンチューリの見出したこのパラダイムの変化は、第二次大戦後十年以上を経て、国際社会の主導権がヨーロッパからアメリカへ完全に移ったことと関係しているようです)

次回につながる話ですが、藤村龍至らの言う「批判的工学主義」が批判的に受け入れようとしている現代の「工学化」も、ヴェンチューリらが60年代ラスベガスに見出した「思想」を徹底したものとして考えられるでしょう。
自動車のスピードに合うように建てられたロードサイドのサインや、異空間として演出され昼夜問わず明々としたカジノなどは、利用者の身体に訴えて即物的にコントロールし、商業的利益を上げようとする点で、(藤村さんが工学化の例として挙げる)客の動線をコントロールするIKEAの商業空間に通じています。

この前ブックオフで100円で買った「建築雑誌」2008年6月号の批判的工学主義についての文章(柄沢祐輔+南後由和+藤村龍至)でも、ヴェンチューリが触れられていたので引いておきます。
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(批判的工学主義を)1970年代に社会への情報化、工学化を対象としたロバート・ヴェンチューリらの言説と比較すると、ヴェンチューリらは、空間、構造、プログラムが全体の象徴的形態によって歪められた「あひる」に成り下がった近代建築を否定し、空間と構造のシステムがプログラム上の要請に従ったうえで、それとは無関係にサインが迫り出した「装飾された小屋」を肯定した。ただし、シンボルやサインにもとづく視覚的なコミュニケーション・システムの再評価においては、装飾/構造の二項図式が前提とされており、表層の戯れを支持する立場に留まっていた。それに対して、「批判的工学主義」は装飾/構造という二項図式を安易に設定せず、構造に加えて、法、規範、市場、マスメディアなどを並列的に扱い、それら「深層」を形成するコードへ介入しようとする。現代の建築家は、ヴェンチューリらの指摘した「装飾された小屋」の集合からなる都市スプロールの問題に再び目を向けたうえで、レトリックやアイロニーを超えた処方箋を提示しなければならない。
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まあ、はっきり言ってあんま何言ってんのかよくわからんけど……。

とりあえず「レトリックやアイロニーを超えた処方箋を提示しなければならない。」という点が気になりました。

asano

うーむ。本文読み直してみると(俺が)見当違いなことを言ってる気が激しくしてきた!やっぱり(ラスベガスの道化っぽさが)よくわかりません!保留します!

とりあえずブログ書いてくれてありがとうございます!

sonoda

>しかしヴェンチューリがこの本で言ってるのは、ラスベガスにおいて「形態は(美学ではなく)経済合理性を根拠にする」という話なわけで、それは立派な「思想」なんじゃないかという風にも思うんですよね。

確かに、僕もそれに賛成します。というよりむしろ、僕もそういえばそうだったというふうに気付かされました。
ただひとまず、保留させてもらって、僕が強調したい部分について述べます。

>アイロニーやレトリックを超えた処方箋を提示しなければならない。

これは何を意味しているのでしょうか。ラスベガスにおけるアイロニーやレトリックというのは、観客にとって、「それが本物のようでいて、その実、本物でない」ということを指しているのではないでしょうか。つまり、古典的な様式が堂々と建っているかと思えば、大きなハンバーガーが道ばたに寝転がっている。古典的な様式の建物は表面的には本物のようであるけれども、それは張りぼてであったり、あるいはまったく時代や地域という文脈から離れたところで、建っている。つまり<記号>だけが、ラスベガスには集積している。来訪者たちが、それが実体ではないと分かっていながら、<記号>だけを楽しんでいるというところが、アイロニカルなのだということではないでしょうか。それを商業的な観点から見れば、ラスベガスには思想が存在するといってもいいと思いますが、僕が強調したかったのは、「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」(たとえば、そこはローマではないのだけれども、ローマに着たかのように、来訪者たちは楽しむ)という点です。そこが、ダブル・バインド的な社会を生き抜くための我々が持っている<道化的特性>とでも呼べるものと、結びついているのではないかと僕は言いたかったような気がします。
ただし、ここで再び問題となるのは、ではラスベガスのような無秩序な地域が世界に蔓延することが果たしてよいことなのだろうかという問いであり(その点についてコールハースが議論しているのでしょうか?)、彼の「処方箋を提示しなければならない」というのは、その意味で「もう一度建築に地域性を取りもどさねばならないのではないか」というある種の先祖返りにも聞こえるのですが、どうなのでしょう。雑感ですが、『ラスベガス』は噛めばかむほど深いなあという気がしています。

asano

>僕が強調したかったのは、「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」(たとえば、そこはローマではないのだけれども、ローマに着たかのように、来訪者たちは楽しむ)という点です。

そうでした。僕の記憶が正しければ、これも先日してもらった話だと思うのですが、すっかり忘れていました。そして、遅ればせながらこの話はちょっと面白いのではないかという気がしてきました(笑)。

とりあえず、

>ラスベガスにおけるアイロニーやレトリックというのは、観客にとって、「それが本物のようでいて、その実、本物でない」ということを指しているのではないでしょうか。

この点について、原文のニュアンスはだいぶ違います。執筆者はあくまで建築家の態度を問題にしているので、ここで言う「アイロニー」「レトリック」は、おそらくレジュメでも引用した『ラスベガス』213pの文章に対応していると思われます。
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アイロニーは、複雑な社会における建築の多様な価値を調整、統合したり、建築家とクライアントの間の価値の相違を融合させる時に、有力な手段となる。社会の階級差を乗り越えることは難しい。しかし、もし価値の多元化した社会において、建築を設計し、建設するという点に関し、一時的な同調を得ようとするならば、逆説、機知、アイロニーなどを理解する感覚が必要とされるに違いない。
----------------------------------------
という部分です。次に、

>ただし、ここで再び問題となるのは、ではラスベガスのような無秩序な地域が世界に蔓延することが果たしてよいことなのだろうかという問いであり(その点についてコールハースが議論しているのでしょうか?)、彼の「処方箋を提示しなければならない」というのは、その意味で「もう一度建築に地域性を取りもどさねばならないのではないか」というある種の先祖返りにも聞こえるのですが、どうなのでしょう。

とのことですが、前半については重要な話だと思われるので一旦措き、後半について前出の文章から関連しそうな部分だけ引用しておきます。
----------------------------------------
「批判的工学主義」は、場所に所与の本質や本物性があるとし、それが失われたとしてキッチュや偽物を非難するのではない。むしろ、テーマパーク化するショッピングモールやコンビニなど、シミュラークルが肯定的に享受される「非場所」において、いかに建築が場所の固有性を獲得し、開花させることができるかを追求しようとしている。
----------------------------------------
というわけで、相変わらずよくわかりませんが単なる反動的な地域主義とはだいぶ違うもののようです。

  ◇   ◇   ◇

さて、ひとまず<道化>の話を整理していきたいと思うのですが、まず、

>「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」(たとえば、そこはローマではないのだけれども、ローマに着たかのように、来訪者たちは楽しむ)という点です。そこが、ダブル・バインド的な社会を生き抜くための我々が持っている<道化的特性>とでも呼べるものと、結びついているのではないかと僕は言いたかったような気がします。

という部分。ここで<道化的特性>を持つのは「来訪者」たちです。言い換えれば、「客体としてのラスベガス」を見る人=「観客」が主体となっていますね。
一方、エントリ本文には、

>そして、それが出来たのも、ラスベガスがもつ道化っぽさにあると思うのだけれど、それじゃあラスベガスの道化っぽさって何だろう。それが無思想を装っているところだろう。いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人なのだから、どこに思想の根拠があるのかよく分からない。

とある。つまり、先程まで客体だったラスベガスという街が今度は主体になっている。僕はここがよくわからないのですが、ソノダさん風に言うとこの主客の転換は「大衆の原像」とかで説明できる。ラスベガスの街が「大衆の原像」であると考えることで、「ラスベガスの街の<道化>っぽさ」と「大衆の<道化的特性>」をイコールで結ぶことが可能になる。 という話だったと思います(違ったらすいません)

しかし僕はそこにちょっと無理があると思うのです。僕の考えでは、ソノダさんは「ラスベガスの街」と「大衆」にそれぞれ個別に<道化>的な部分を見出していて、その2つは完全に無関係とは言えないものの、基本的に別のものなのではないでしょうか。

ちょっとまとめておくと、 今問題となっている<道化性>を、

 1=「訪問者」「観客」の<道化的特性>
 2=ラスベガスの街の<道化>っぽさ

とした上で、それぞれを特徴づけるのは、

 1-A=「訪問者」たちが、「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」点。
 2-ア=ラスベガスの街が、「無思想を装っている」点。「いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人で、どこに思想の根拠があるのか分からない」点。

ということになります。

こうして並べてみると、1-Aは、2-アの「いろいろな時代の様式を立ち上げて~」を条件としていることがわかります。
要するに、その時代のその場所にその様式の建物を建てる理由はないのにそれらを建ててしまったことによって、ラスベガスの街の景観は「本物」ではなくなってしまった。にもかかわらず、訪問者は「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」、という繋がりがある。
そもそもラスベガスの話をしてるわけだから当たり前っちゃ当たり前の話で、なんか同語反復に陥ってる気がしないでもないですが、とりあえずその意味では、1と2は結びついていると言える。
逆に言うと、1と2はその点で結びついてるだけで、ぶっちゃけ「大衆の原像」はあんまり関係ないんじゃないでしょうか(とはいえ原著に当たったわけではないので何とも言えないし、むしろバシバシ結びつけて頂く展開を期待しているのですが)。

……と、僕はこのように思うのですが、実際のところ、1と2の関連性についてはどのように考えているのでしょうか?

あとこの前の読書会から気になっていたのは、ソノダさんの出した「直感」とか「感覚」というキーワードです。音源を聴き直してみると、(大衆あるいは「大衆の原像」の)「直感」や「感覚」からラスベガスが立ち上がったのではないか、と仰っている。この2つの言葉が自分のなかでイマイチしっくりきていないので、その点もう少し輪郭を描いて頂けるとありがたいのですが(吉本隆明がこういう言葉を使っているのでしょうか?)。

(ところで、卓袱台を返すようですが、訪問者が「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」という類の記述は『ラスベガス』にありましたっけ?)

  ◇   ◇   ◇

このあとヴェンチューリと場所性の関係や2-アの「いろいろな時代の様式を立ち上げて~」について、ちょっと自分なりにまとめようと思っていたのですが(むしろそっちがメインのつもりだったのですが)、若干ヒくほどの長文コメントになってしまっているのでこれで終わります。その点についてはできれば改めてエントリとして書きます。

とりあえず感想としては、これはいつものソノダさんの話の傾向ですが(笑)、やっぱり<道化>というのがマジックワードすぎるなーと(触れませんでしたが、本文では本の方の『ラスベガス』も<道化>ということになってるんですよね)。
しかし整理しているうちに、この言葉がいろんな話とつながる可能性を秘めている気がしてきたので、こうして建築との接点らしきものが見出されたわけですから、『ラスベガス』に限らず、どうにかこの話を広げていければと思います。

sonoda

>逆に言うと、1と2はその点で結びついてるだけで、ぶっちゃけ「大衆の原像」はあんまり関係ないんじゃないでしょうか

ラスベガスという場所が、まずどういう場所であるのかという点が重要な要素の一つではないでしょうか。ラスベガスは、住宅ではなく、商業娯楽施設です。建築の文献から離れてしまいますが、『おかしみの社会学』という本の中で、コピーライターの天野祐吉さんが、CMの「おかしみ」について哲学者の福田定良さんの言葉を引いて説明しています。コマーシャルが「おかしみ」を持ち出そうとするのはいったいなぜか。

 テレビのなかには、そういうおかしみを意図的につくり出そうとしているものもあります。番組のなかにもあるけれど、コマーシャルがそうです。すべてのコマーシャルがおかしみをねらっているとは言いませんが、大半のコマーシャルはねらっている。
哲学者の福田定良さんによると、それはコマーシャル自身が「おかしい」ものだからです。招かれもしないのに、人の茶の間にズカズカ入ってきて、ああだこうだとモノを売ろうとする。たしかにコマーシャルというのは、その存在自体がおかしいものですね。で、そのおかしさを浮かすために、別のおかしさが必要になってくる。おかしさを売ることで、存在自体のおかしさを消し、受け手との間に対話の通路をひらこうとしている、といった意味のことを、コマーシャルについて福田さんは言っています。P20-21

ラスベガスが商業娯楽施設であるならば、その本質は同じものではないか。つまり、面白さによって、人を引きつけることで、生計手段をたてていく。さらに、「受け手との間に対話の通路をひらこうとしている」という部分は、ヴェンチューリの「コミュニケーションを活発化させる建築」というたぐいの言明と共鳴しているようにも思います。<道化>に大きく関わる「おかしさ」とは何かを定義することは、ひどく難しいと思うのですが、人類学者の北村光二さんが笑いについて、「たがいに笑いあうことこそ笑いにとって本質的なことだ」(野村雅一『ボディランゲージを読む』)という持論をもっているそうです。ただ、ここで議論を「おかしみ」について進めるのは、文脈が違ってくる気もするのでここでとどめます。(ちなみに、『ラスベガス』の中には、<道化>という言葉は無かったと思いますが、やはり「アイロニー」から、そういう言葉が僕の中から引き出されたと考えます。)
『ラスベガス』の話に戻しましょう。「大衆の原像」という言葉は、僕の誤解も十分に含まれていて、使うのには便利ですが、容易に使ってしまったかなという気もしています。ただ、ラスベガスに「大衆の原像」が見えるのではないかという点は、まだ保守しておきたいところです。そこで、もっと別の言葉を補足しなければならない。

「大衆の原像」とは何か。吉本さんの明確な定義をすぐに探し出すことはできないのですが、僕が理解している範囲内で、ここでは議論させてください。
そもそも、この言葉が出た背景には、日本の戦時中のナショナリズムについて、どのように考えればいいのかという問題が、その本の中にはありました。たしか『日本のナショナリズム』だったかと思います。どうして当時の大衆は、戦争に容易に参加することになっていったのだろうか。彼らの胸の内を探るために、まず行えることといえば、当時、たとえば婦人たちが、兵隊たちが書き残した日記を参照すればいいのではないか。そう考えるのが一般的かと思うのですが、吉本さんの手法が面白いところは、そうではなく、当時の流行歌の歌詞からそれを読み取ろうというものでした。彼らの書いた日記というものは、当時の新聞に書かれた事情を丸写しするだけである。そこに彼らの本懐を読み取ることはできないという発想でした。その意味では、いつも僕が使ってしまう言葉で恐縮ですが、「大衆の身体」に、それらを探ろうとしたと捉えることができるのではないでしょうか。流行歌は、何を考えることもなく、鼻歌で思わず出てしまうものですから、流行歌の方が、その意味では身体化されていて、彼らの動向を探るにふさわしいということでしょう。彼の本の中では、明治、大正、昭和と、流行歌の歌詞の変遷をたどっていって、大衆の「本当の心情」(これは僕の言葉です)の変化を探っていこうとしました。明治期には活きが良かった大衆は、世界恐慌を経て、だんだんと力を失っていく。昭和には、もうほとんどぽっかりと穴があいて廃人みたくなっていく。これも吉本さんが使った言葉かどうかは分かりませんが、いってみれば、「大きな物語をもっていた大衆はやがて、それを喪失してしまう」過程が描かれていたと把握しています。
とにかく、「大衆の原像」というのは、大衆の深層心理みたいなものだと思うのですが、おそらく重要なのは、そういった心理は、時代や場所によってそうやすやすと変化するものではないという点です。ただ、これ以上進めるとボロが出るので、もう一度読んでからにさせてもらいたいと思います。

それで、問題はさしあたり、「大衆の原像」という言葉で僕が何を言いたかったかということです。言ってしまえば根拠も何も無いことなので、議論になるか分からず不安なのですが、その大衆の深層心理として、<道化的特性>があるのではないかということでした。つまり、「アイロニー」というのが、人間の根本的な特性のひとつのような気がする。(といってしまって、僕の中では「大衆=人間」という図式を作ってしまっていることに気が付きましたが、ひとまずそうさせてください。)そこで、先に引用した北村さんの「たがいに笑いあうことこそ笑いにとって本質的なことだ」という言葉が響いてきます。人が笑う理由は結局のところよく分からないけれど、相手と笑いあえるということが、ものすごく笑いにとって、重要な要素となっている。コミュニケーションの通路となる。それは実感(また使いますが)としてあります。相手が笑顔だったら、しゃべりかけたいと思うし、そうでなければ避けたいと思う。

ラスベガスの強さは、おそらくそこにあるのではないか。近代建築は、真面目をマジメにやっているのだ。ラスベガスは、不真面目をマジメにやっている。それは、住宅と商業娯楽施設という差でもあると思います。商業娯楽施設だからフマジメをやることが、認められている。僕は、「あらゆる人間の深層心理は、実はフマジメだ」という点を、「大衆の原像」さらに<道化>というう言葉で表現したかったのかもしれません。その意味ではラスベガスは人間的だということです。ヴェンチューリがどう考えたのかは結局のところ分からないので、さらに文脈を大きくはずれてしまいました。ですが、ここはひとまず強調しておきたかったので、載せていただきました。

asano

ふと本棚を見るとブックオフか何かで買ったまま埃をかぶっていた吉本隆明の本があったのでパラパラめくってみたら(1990年の『ハイ・エディプス論』というインタビュー集です)、ちょっと面白いところがあったので引用します。インタビュアーの人の発言です。
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だいぶん昔のことで言いますと、〈大衆の原像〉ということをいわれたときにですね、吉本さんが〈大衆の原像〉というけれども、中身を書かないじゃないかというような批評が出てきたことがあったとおもうんです。僕はそうじゃないんだ、中身はこうなんだと勝手に理解していたんですが、ただその時にこだわりが残ったんですね。原像というふうに言葉として提出されたけれども、言葉の中身というものをけっして一つの価値として規定するものではなかったんじゃないかという問いがちょっとあったんです。(…)そういうばあいに、中身のイメージというのは読み手である僕なら僕がどうしても自分で描いてしまって、というか一種の価値的なイメージを付与して、これを吉本さんのものであるように求めてきたところがあるような気がするんです。
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このあと何やら観念的な言葉が絡んできてまあよく分からないのですが、いずれにせよ〈大衆の原像〉という言葉は、内実が極めてわかりにくく、それを使う人間が何らかのイメージを投影してしまうマクガフィン的な何かだ、ということを確認しつつ、本題に移ります。

   ◇   ◇   ◇

ちょっと話が拡散気味なので先のソノダさんのコメントを踏まえてもう一度論点を整理し直しながら、いくつか質問を投げかけてみたいと思います。ひとまず<道化>という言葉から確認させてください。
<道化>とは、

・立場がはっきりしない(思想的根拠を持たないように見える)

存在であり、そうであるがゆえに

・何らかの物語(国家、宗教etc~より小さなものまで含めての価値観)に没入せずに、物語を相対化することができる。

そして、そこには何らかの形で「アイロニー」や「笑い」が関係している。とりあえずそんな認識でよろしいでしょうか。

次に「アイロニー」についてですが、先日も話に出た通り、ソノダさんと僕の間には「アイロニー」という言葉をめぐって認識の相違がある。
僕は「アイロニー」を行使する主体の「秘めたる意思」に重点を置く。よって、ヴェンチューリのそれ(『ラスベガス』213p)については、建築の正当性に関する合意形成を行おうという意思があるので「アイロニー」と言えるが、ソノダさんの言う「ラスベガスの街のアイロニー」には基本的に納得できていない。そこには「秘めたる意思」がない。というより、そもそも「秘めたる意思」を持つべき主体が存在しようがない。
それに対して、ソノダさんは「大衆の原像」という言葉でラスベガスの街の主体性が確保できると言う。つまり、ラスベガスの街は「大衆の原像」の表現型であり、ラスベガスが主体である=大衆の無意識が主体である(これに対して僕は反証しようがない)、という話だったかと思います。

しかしここでは、僕がこだわっている「秘めたる意思」の問題は一旦措きましょう。
その上で、ソノダさん自身が「アイロニー」という言葉をどのように捉えられているのか、そこにどのようなニュアンスを投げかけているのか、もう一度確認させてください。
何らかの具体例を通した方が良いのであれば、ここまでのコメントを読むかぎりにおいて、ソノダさんが「アイロニー」だと認識しているのは、ラスベガスを訪れた観客の、「それを本物でないと分かっていながら、本物であるかのように振る舞う」態度ですね。この態度のどのような部分が「アイロニー」であると考えているのか、ちょっと説明して頂けないでしょうか?

   ◇   ◇   ◇

さて、とりあえず「アイロニー」という言葉の内実に触れない程度に話を進めます。ひとつ前のソノダさんのコメントに戻ります。

>とにかく、「大衆の原像」というのは、大衆の深層心理みたいなものだと思うのですが、おそらく重要なのは、そういった心理は、時代や場所によってそうやすやすと変化するものではないという点です。

そもそも流行歌というのは、特定の時代と場所に縛られているのではないでしょうか? というよりこの部分は、その直前の、

>彼の本の中では、明治、大正、昭和と、流行歌の歌詞の変遷をたどっていって、大衆の「本当の心情」(これは僕の言葉です)の変化を探っていこうとしました。

という部分の、「変遷」や「変化」といった言葉と矛盾するようにも思われます。あるいは、そういった特定の時代と場所に立ち現れた無意識を比較していくと、同一の構造=大衆の深層心理としての<道化的特性>が見出せるということなのでしょうか?
次に、

>つまり、「アイロニー」というのが、人間の根本的な特性のひとつのような気がする。(といってしまって、僕の中では「大衆=人間」という図式を作ってしまっていることに気が付きましたが、ひとまずそうさせてください。)

ここでは、ソノダさんの考える「アイロニー」が、人間=大衆の根本的な特性のひとつかもしれないと仰っている。これは、ある程度長い時間軸と場所を跨いでそうかもしれないと捉えている、という風に考えてよいでしょうか?
たとえば「親の愛情」は、人類において、(例外はあるにせよ)時間と場所を問わない性質ですね。こういったものを指して僕たちは、これを人間の普遍的な感情であると言う。「アイロニー」、ひいては<道化>も、そういった性質のひとつかもしれない、ということでしょうか? つまりは、ここでの「人間の根本的な特性」=「普遍的な性質」と考えてよいのでしょうか?(そもそも「大衆」という概念自体が少なくとも近代以降のものではないかという気もするのですが)
ソノダさんがなぜ「大衆の原像」という言葉を出したかを考える上でも、これらの点を確認しておきたいと思います。

   ◇   ◇   ◇

僕の考えでは、ソノダさんの提起された<道化的性質>は、近代化の過程で徐々に一般化し、ごく最近、たぶんケータイやインターネットの普及に伴って若い世代の間で急速に広まったのではないかと思います。
そして、そうであるがゆえに、今<道化>という言葉について考えることには有用性がある。

たとえば僕たちは、学校ではこういうキャラであるが、バイト先ではこういうキャラである、特定の友達との間ではこういうキャラである、家族内ではこういうキャラであり、ブログ上ではこういうキャラであるetc……という風にキャラを使い分ける人物像を容易にイメージすることができます。ここでは、どのキャラが本当の彼自身なのかわからない。これは<道化>のイメージそのものではないでしょうか。
そして、そういった個人のイメージは、ごく最近になって広まってきたように思えます。というより、そもそも「キャラ」という言葉自体、ごく最近出てきた言葉なわけです。そして、こういう言葉が出てきたことが、<道化>の一般化を端的に表している。
つまり、道化という言葉が多くの人間に当てはまるのは、僕たちが数十年前に比べて一層さまざまなコミュニティにアクセスする機会を得て、個人にとって中心的なコミュニティが曖昧になっているからではないか。
おそらくはそれ以前の世代においては、家庭での自分が本当の自分であるというイメージがあるのでしょう。そして、このパラダイムの変化、ビフォー/アフターを象徴するのが、家電話/携帯電話だと思います。なぜなら、携帯電話こそが、個人の持つ関係性を最も可視化するからです。そこでは、自宅の番号もバイト先の番号も、何年も会っていない中学時代の友人の番号も、すべてが並列化されてしまう。

あるいは、こういうことも言えるでしょう。
たとえば、価値観の固まっていない無垢な中学生が『アバター』を見て、これは最高の映画だと思ったとする。クラスの友達に「アバター最高!」と言いまくった。しかしその後に、グーグルに「アバター」と入力して検索すると、「これは『もののけ姫』のパクリだ」とか何とか、映画通っぽいことを書いているブログに行き当たる。その時点でその中学生は、「そうか……俺は何も知らないんだな」と考え、「アバター最高!」と言いまくった自分を恥じるのではないかと思います。ところが別のブログを見ると、「いや、逆にアバターは良いのだ」とか言っている。そのようにして彼は、社会が多様な価値観を持っていることを嫌というほど思い知らされ、物事を相対化する視点を内面化し、価値観を宙吊りにした人間として教育されていくのではないか。結果として彼は、<道化>になるしかなくなる。
身も蓋もない言い方をしてしまうと、メディア等技術の発展によって個人が別のコミュニティに向ける想像力が高まり、その結果として価値観が相対化される可能性が高まった、ということです。
ある人間のなかで価値観が相対化される為には、その人間が複数の価値観を知っている必要がある。極端な話、鉄道もテレビも本もない外部との交流が希薄な村では、<道化的人間>は生まれようもないのではないでしょうか(これは「何でもない」の話と接続できる可能性だと思います)。
そして、インターネットはまさに価値観の多様性を可視化するメディアであり、人間にとって可視/不可視の違いは相当に大きいように思えるのです。

   ◇   ◇   ◇

最後に付け加えておくと、<道化>や「アイロニー」と、「笑い」との関連性について、ソノダさんのなかでどのようにイメージされているのか、についても今のところあまりよくわからないです。もちろん、言葉の本義としての道化が「笑い」を生業とすることや、この前話した時にソノダさんがマルクス兄弟の映画の例を出していたことからも、なんとなく関連していることはわかるのですが……。

またまた長くなったので、とりあえず僕からの質問をまとめておくと、大きく分けて、

【質問1】「アイロニー」という言葉をどのように捉えているのでしょうか?
【質問2】<道化的特性>は、時代・場所を問わない人間の性質なのでしょうか?

この2点が気になっています。
いよいよ建築から遠ざかってきた感もありますが、とりあえずこんな感じでひとつ。

asano

一応ちゃんとした文献に当たっておこうと思い山口昌男の本を借りてきたりしたんですが、ちょっと思い付きをひとつ。

なんかいろいろ考えてるうちに思い浮かんだのは、爆笑問題の太田なんですね。あの人が『トリックスターから、空へ』という本を出している。この「トリックスター」という言葉を訳すと「道化」になるんだと思うんですけど、彼はたけしにすごい影響を受けて、たけしをロールモデルにして出てきたはずなんです。にも関わらず、「太田総理」に出てる太田は、「TVタックル」に出てるたけしとは全然違う立ち位置にいる。
で、その件についてこのブログにすごくいい記事があるんですけど、
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20061224#p1
この中で水道橋博士の太田評が紹介されていて、こういうことを言ってるらしい。
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この世界に入ってから、俺より下の世代の芸人のたけしイズムの解釈が“嘲笑”でしかないことを何度も戸惑ったし、ビートたけしの逆説が分らない若者の多さには本気で呆れている。
それはサブカルチャー論にも共通する。いつの間にか、サブがメインにあり、カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。
昨今の太田光が、実にお笑いにあるまじき、まともな正論をぶつ論客となっているのも、本来のメインカルチャーの方が脆弱すぎて、立ち居地としては、正論をぶつ方が、むしろ異端であり、カウンターであるからだろう。
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ここでの「いつの間にか、サブがメインにあり、カウンターで発言すべきサブカルチャーが正論の如く流通している。」といった類の言説は、まあいろいろ言われ尽くしてると思うんですけど、すごく陳腐な論旨に回収されることを承知で言うと、こういった状況がまさに、「大衆」の<道化>化とイコールで結ばれるのではないかという風に、僕には思えます。

付け加えておくと、太田を評価する上で、僕は上の引用部だけでは不十分だと思うんです(もちろん、言外には含まれてるのかもしれませんが)。つまり太田は、引用部にあるように、単に「フマジメ」になった社会に反動的に「マジメ」をぶつけているだけではない。その上で、インタビューとか本とかラジオとかで、「自分はトリックスター(=フマジメ)だ」と言ったり、「フマジメでありたい」と語るんですね。
僕は違法アップロードされる爆笑問題のラジオを毎週聴いていた時期があって、確かミスチルがゲストで来た回の冒頭だったと思うのですが、芸人とは「イロモノ」であるべきだとか、俺は「イロモノ」でありたいだとか、自分の立ち位置についていろいろ言っていた。それ以外でも、「芸人とはこうあるべきだ」とかいうことを結構言う。
こういった「マジメ」な自分を相対化する彼の振る舞いが、実は重要なのではないか。そのことが、世間の相対化につながると同時に、彼の存在をより一層魅力的にしているのではないかと思います(その結果として上のブログのような記事が書かれたりするわけですし)。そして、こういった振る舞いを含む彼のイメージの総体を指して、僕たちは「アイロニー」と呼ぶのではないでしょうか。

最後にちょっと、Wikipediaの「アイロニー」の項から引用しておきます。
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1. 本当の考えや意図と違う、多くの場合は違うだけでなく反対の、考え、評価を、その形式的な過剰さなど、何らかの形でそれが真意ではないことをほのめかす所作、サイン、文脈とともに口にし、あるいは表現することで、却って表現されたものと異なる評価や考えを表現すること。
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僕には、ここでの「何らかの形でそれが真意ではないことをほのめかす所作、サイン、文脈とともに口にし」という部分が重要ではないかと思えます。それがあって初めて、僕のような「フマジメ」な「大衆」が、「アイロニー」の存在に気付ける、ということだと思うんです。

(追記)
面白い話だと思うのでこっちで勝手に飛ばしていますが、別に今度お会いした時にしてもいい話なので、返信はご随意に。

sonoda

アサノくんと僕との間で、アイロニーに対するイメージが違うのだとしたら、そこに「本当の考え」があるかどうかという点なのだと思います。
ひょっとしたらそうかなと思うのですが、アサノ君の場合はアイロニーの裏にはいつも「本当の考え」が潜んでいる。でも僕はアイロニーに裏にも、実は「本当の考え」なんて潜んでいないというふうに考えています。
ところが、wikipediaの定義にしたがって考えてみれば、それは論理としておかしい気もします。何か、隠すものがあってはじめてアイロニーは成り立つはずだからです。だけども、アイロニーが隠すべきものがなくなり始めているのではないでしょうか。
つまり身体を隠す、そして隠すことによってほのめかすという機能をもつ<衣服>(この意味で衣服はアイロニカルだと思います)を脱いでみると、隠すべきはずであった<身体>が、気が付けば見あたらない。いったい自分は、服を着ることで何を隠そうとしたんだろう。ここでは、wikipediaがいう意味でのアイロニーがもつ性質は消えてしまって、むしろアイロニーが、「本当の考え」だとさえ扱われてしまうこともあるのでしょうか。


ここで、少し話が切り替わるのですが、分裂症患者と隠喩の例をあげましょう。

よく分裂症者の「自我が弱い」といわれていますが、この「自我の弱さ」ということをわたしなりに定義すると、「あるメッセージがどのようなメッセージなのかを告げるシグナルを見分け、それを解釈することがままならない」となります。つまり、「これは遊びだ」というシグナルを同じ論理階型にあるさまざまなシグナルを、彼らはうまく扱うことができない。たとえば、病院の食堂に入った患者に、注文取りの女の子が、”what can I do for you?”と声をかけたとすると、これが彼には、どういう種類のメッセージなのか-つまり「手ごめにしてやろうか」という脅しなのか、「一緒にベッドに入ってもいいわよ」という誘いなのか、「コーヒー一杯サービスしましょう」という申し出なのか-分からない。メッセージは耳に入るけれども、それがどういう種類または等級に属するのか見当がつかない。メッセージに付けられたより抽象的なラベルを、受け取ることができないということです。280-281『精神の生態学』

ここから読み取れるのは、分裂症患者は一つの言葉からさまざまな意味を読み取る能力はあるが、その場にふさわしい意味付けを行うという一歩が踏み込めない。つまり、アイロニーがもつあらゆる意味を読む能力は、私たちと同じくあるが、意味を断定するというところまでは行かない。そこで、何も言えなくなっているうちに、コミュニケーションが破綻してしまうということなのです。「一般の人」なら、そこでうまい具合に相手の意味するところを読み取ることができるのです。つまり、「アイロニーを察する」ことができる。「アイロニーを察する」とは、相手の考えている胸の内が分かるという意味です。そもそも、分裂症者がメッセージをあるカテゴリーにあてはめることができなくなってしまった背景には、「ダブル・バインド」が発生する環境のもとで育ち、彼がメッセージの意味を読み違えるごとに、罰を受けてきたからだというのが、ベイトソンの言わんとしているところです。

ダブル・バインドの重要な要素をひとつここで取り上げます。ダブル・バインドとは、何度も恐縮ですが、二つの相矛盾する命令が、同時に発せられた状況のことを指します。
一次的に発せられる処罰を意図したシグナル。こういったものはふつう非言語的手段によって伝えられます。「ポーズ、ジェスチャー、声の調子、有意なしぐさ、言葉に隠された含意」といった表現です。次に、二次的なメッセージが与えられます。ここで二次的なメッセージにとって最も重要なのは、「このレベルから発せられる禁止のメッセージが、第一のレベルのメッセージの、どの要素とも矛盾する」点です。具体的には次のようなものです。
「これは罰ではないのだよ」
「わたしがおまえを罰するような意地悪な人間だと思っているんじゃないだろうね」
「わたしが禁止したからといって、それに素直にしたがう人がありますか」
「何をしてはいけないのか、などと考えるのはやめなさい」
「おまえにこれを許さないのは、おまえを愛するからこそなの。(たとえそうでないにしても、わたしの愛を疑うことは許しませんよ)」
といったものです。これらの例はベイトソンが挙げています。私事ですが、ここを読んだとき、自分のことが身につまされ、なぜか涙が出そうになりました。(←アイロニー)

問題は、アイロニーの裏には「本当の考え」があるかどうかということでした。そこで、今提示した例に母親と子どもの関係を当てはめるならば、ここには母親の「本当の考え」があるという言い方ができます。母親が息子をけなすのは、何らかの理由で息子のことが実はきらいだからです。なので、身体はウソをつかないので、彼が寄ってくることを拒否してしまいます。子どもだって人間ですから、それを見抜きます。ところが、そういった気持ちを簡単に打ち明けるわけにはいきません。そこで、母親は二次的メッセージで補足するのです。「ごめんね、実はおまえのことを愛してるんだよ」と心を込めたふりでもって彼をなでます。ところがこのメッセージは二重の意味をもつことになります。それは言葉では「愛しなさい」と言っておきながら、本当に愛せば、罰を受けるのです。ここには「私を愛しなさい」と「私を愛してはいけません」というメッセージが、同時に発動することになります。このような母親からすれば、「本当の考え」(つまり、子どもを愛していない)が存在することになります。ところが、子どもの場合はどうでしょうか。「愛している」と表明すれば拒絶され、「愛していない」と打ち明ければ罰を受ける彼には、いったい「本当の考え」とは何なのでしょうか。彼にとっては、自分が抱いているはずの「本当の考え」というものが、実は分からないのはないでしょうか。母を愛しているのか、愛していないのか。彼にとっては、どちらの欲望も、自身に真実めいて聞こえないのではないか。なんと言えばいいか、自分の欲望に自信がなくなるのではないか。ここまでむげに扱われて、自分は本当に母のことが好きなんだろうか。

70年代のつかこうへいの小説「青春かけおち篇」を思い浮かべます。カメラマンの男と女は付き合っているのですが、その女のもとにある日、ある社長の男性とのお見合いの話が持ち上がります。カメラマンの男は必死になってお見合いを食い止めるかというと、そうではなく、面白そうだというので、一緒に「お見合いの席」に足を運びます。ところが、どうも雲行きがあやしくなってきて、女はその社長の方がいいというし、またその家族もこっちがいいという。これではだめだ、二人の関係がおわってしまうと、二人は決心して「かけおち」に踏み込むのですが、女の家族も、誰も二人を捜そうともせず、二人は京都の旅館で無為なひとときを過ごすことになります。とうとう、金もなくなり、もはやこの生活にも飽きたというので、自分たちから家族に連絡をとり、迎えに来てもらことになります。

つかこうへいの小説に登場する人物たちには、「本当の考え」というものが見あたりません。その「芯のなさ」を自分で補おうと、過剰な行為に走るのです。この点については扇田昭彦が書いています。ここに登場する二人も、実は本当に愛し合っているのかよく分かりません。その不安を補おうと、「かけおち」というイベントを、自分たちに課してみたりして、精一杯、「愛し合っている二人」を演技しようとします。
「このヤロー」と、俺には考えるところがあると、いきおいよく言ってみるものの、「それ違うんじゃない?」とたしなめられると、「やっぱりそうかな?」とあきらめてしまう、そういう状況が、私たちの生きている現在にあるんじゃないでしょうか。私の中の「本当の考え」がよくわからない。アイロニーは、そういう足場のなさを表現しているようにも思われます。アイロニーだと、ひとまず「本当の考え」が何かある、とにおわせることができるからです。

またまた話が変わりますが、私事から考えてみると、自分は「キミ、かわいいね」が言えないというのが、ずっと頭にあります。
女の子がバーにいて、初めて会った人に、ごく自然に「キミ、かわいいね」と言える人が居ますが、僕はそれが恥ずかしくて言えない。これも一種のアイロニーだといえるでしょう。でも、中には本当に「かわいいね」と言いたいだけの人がいるのかもしれません。そういう人の「かわいいね」は、僕はなんか好きです。でも、あからさまに別の意味を含んでいると読み取れる場合は、聞いているこっちが恥ずかしくなります。イヤになってきます。何でこんな話、したんだろう。

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