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ラスベガスと道化

読書会が終わった後も、浅野くんと僕はいろいろと話をしていた。僕にとっては、そこで思いがけない一つの結論がでた。『ラスベガス』は道化だったんじゃないか。だからこそ、これだけ(どれだけかよく分からないが)の影響力をもったのではないか。
道化ってなんだろう。さまざまな定義はできるだろうが、ひとまずその本質をつかむとすれば、思想を持たない者(あるいは思想を持っているのかもしれないが、本当のところは何を考えているのかよく分からない者)のことだ。あっち行っては、そうだねと相づちを打って、こっち行ってはこうじゃない?と口出しする。ああそうか、とその場所で時間が動きはじめたら、もう彼はそこにはいない。八方美人という言葉もある。それは道化を言い当てている言葉のひとつだろう。
ラスベガスには、たくさんの看板がごった返していた。色も種類もごちゃごちゃだ。もし、ラスベガスが一種類の看板で、埋め尽くされているとしたら、こうは話題にならない。一種類の看板で埋め尽くされている例として飛田新地が出てきたのだ。飛田新地には、向こう何十メートルとわたって、四角い白塗りに、文字が書かれている統一された看板がずらっと軒を並べている。それはそれで圧巻だが、ここで問題となっているのは、その場合、ある種の思想がそこに裏打ちされているということだ。それがどういう思想であるのかはさしあたりここでは問題としない。統一されていて、歩くには心地がいい。一気に何か別の世界にもぐりこんだふうになる。
では、ラスベガスはどうだろう。統一感から来る心地よさではなく、むしろ秩序のなさから来る心地よさがきっとあるのだろう。それを統一感といってかまわないが、やはりそれもここでは問題ではない。
ベンチューリがいいたかったことは、おそらくラスベガスのもつ特異さを持ち上げたかったのではない。むしろ。ラスベガスに反映されている私たちの態度のようなものに注目したかったのだ。
「ダブル・バインド」という言葉をご存じだろうか。グレゴリーベイトソンという学者によって提案された理論である。たとえば、入院しているお母さんのところに、子どもがお見舞いにやってくる。母は「おいで、おいで」と、子どもに優しい言葉をかけて呼び寄せる。ところが子どもは、それとは裏腹な母の態度に直観的に気が付いてしまう。母は、「おいで」といいながら、その手はどことなく子どもが寄ってくるのを拒否しているのである。子どもは、母が自分を避けていると、どことなく気が付きながらも、なおも彼女に近づいていくしかない。ここで彼女を拒否してしまえば、彼は母を苦しめることになり、なお彼の生活を圧迫していくことになるのである。ところが、彼がただ純粋に、母の言葉を信じて近づいていくことも、母を苦しめることになり、また彼の疲労が重なっていく。このように、近づくことも離れることも出来なくなってしまうような状態をベイトソンは、「ダブル・バインド」(二重の束縛)と呼んでいる。このような環境のもとで育つと、この子どもは成人して精神障害を引き起こすというのが、ベイトソンの論である。
これは他人事だろうか。ぼくにはそうは思えなかった。これを呼んですぐに感じたのは、世間と個人の関係だ。学校で僕たちは、「君たちは立派な一人の人間なんだから、自分の思うように好きにやりなさい」とたたき込まれる。ところが、学校もいかず、家でギターを弾いて一生懸命に打ち込んでいると、すぐに罰を与えられる。世間と個人の関係は、このように実はダブル・バインドなんじゃないかと、僕は考えるようになった。
ところで、なぜ道化の話から、ダブル・バインドの話になったのか。それは、世間と個人の関係がダブル・バインドであるとするなら、僕たちはもはや道化にならざるを得ないからである。さきの母と子の話で重要なのは、決して子どもが母を拒否してはいけないということ。子どもは母を拒否しては、もう生活してはいけない。それと同じで、個人は世間を真っ向から否定すれば、生活していけない。そこで、僕たちは、無意識のうちに道化にならって生活するようになっているのである。母が「おいで」といえば、「はあい」と、近づき、愛しているふりをしてしのぐ。先生が「ちょっと」と呼べば、「何ですかあ」と、笑顔で答える。もうそれしかないんじゃないかな。「おれはこいつが嫌いだ」とか言っていられない。どんな人にもニコニコニコニコ、そこにいたいとかいたくないとかは別にして、その場をうまく切り抜ける。つまり、その場にうまくなじんでいるふりをする。本当のことなんか言っちゃったら、生活できません。その八方美人の態度は、まさしく道化のそれなんだろう。お笑いブームはおそらくそれと関係がある(ただ、お笑いブームはしょっちゅう来ているらしいが)。
話を建築に戻そう。『ラスベガス』は、そういう僕たちがもっている「生き延びるための道化的特性」みたいなものを暴くことによって、近代建築に「この、嘘つき。かっこつけたがり!」っていうふうに、近代建築のエリート集団に食らいついたように僕には思えた。ここでいうウソというのは、「形態が機能に従っている」ということである。「本当は機能になんて従ってやいないじゃないか、機能に従うんだったら、看板にEATって描くのだって、機能に従ってるじゃない」というのが、彼のいわんとしているところだろう。そして、それが出来たのも、ラスベガスがもつ道化っぽさにあると思うのだけれど、それじゃあラスベガスの道化っぽさって何だろう。それが無思想を装っているところだろう。いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人なのだから、どこに思想の根拠があるのかよく分からない。思想の根拠が分からないということは、彼は敵なのか味方なのかもよく分からないから、攻撃しようにもできないということなのだ。それが道化の強さである。かくして、ラスベガスは近代建築に冷や水を浴びせえたのであろう。

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ラスベガスから学ぶこと。

近頃バイト始めました。べっしーです。

先日はべっしーが個人的に参加している都市計画のグループワークのインタビューに行きました。

「みんな都市の中心地に住んでそこで仕事やれば、都市環境に意識がいって上手くいくんじゃね?」
って相手が言ってて、わりと面白かった。


さて、前回の読書会、「ラスベガス」についてです。

べっしー自身は「ラスベガス」の内容をネットで調べて、ある程度知識はあったつもりだったんだけど、
実際に内容を読書会で確認することの意味って大きいと思ったわけです。

自分が読んで、ネットで調べて勉強した「ラスベガス」の内容(ダックであるとか、デコレィティッドシェッドとか・・・)は用語としては表面上は理解していたけれど、皆で話して確認してみると一つ一つの用語にも深みが出てくる。
感覚的には、数学の公式を覚えて、それが読書会で実際に解けるようになる感じ?
です。

それと、純粋に自分が勉強した内容が、誰かにとって何らかのプラスの影響を与える。
そういう場を読書会が提供していけたらいいよなぁって思いました。ええ。


我々としては何とか「読書会」を成功させたい、という思いがあったので、ある程度内容に踏み込んだ
そういう意味では見学者の3人には、後半の「ラスベガス」の話については申し訳なかったという気がします。
次回は課題図書の関係で比較的参加しやすい感じかと思います。

次回は「1995年以後」です
べっしーがレジュメ担当です。
これは大変です。

とりあえず藤村氏についてはこちらで1枚程度、残りの建築家は軽めのレジュメを作ろうと思います。

各自興味のある建築家、作品についてまとめておいてもらえるとありがたいです。

では、予定あいてる日が分かれば連絡下さい。お待ちしております。

べっしー

第5回(3/23) ロバート・ヴェンチューリ『ラスベガス』

3月23日に千里山・山脇文庫(古い本がいっぱいある個人経営の図書館)に於いて、第5回読書会を行いました。
前回までに参加していた4人に加えて、関学と同志社の方が3人見学で来て下さいました(このブログを見て興味を持ってもらったということで、俺は本当に感動した!)。

前半『ラスベガス』とは関係ない話が盛り上がって、読書会は基本的に本の内容理解の共有に終わりましたが、携帯ストラップや飛田新地にまで話題が飛び、かなり面白い話ができたと思います(感想とかこのブログに書いてくれると嬉しいなー。嬉しいのになー)。

試しに音声ファイル(最初の方切れてる)をうpしてみる↓(一週間で消えます)
http://firestorage.jp/download/337cf75a80fe08aedb62c27a21936f94d5012014

1.5倍速くらいで聴いてもらうとちょうどいい感じです(笑)。

次回の課題図書は藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT編著『1995年以後』です。
皆さんそろそろ学校が始まって忙しくなると思いますが、ぜひぜひ参加してください。

(asano)

第5回(3/23) ロバート・ヴェンチューリ『ラスベガス』レジュメ

■ロバート・ヴェンチューリ他『ラスベガス』(1972年、改訂版1977年)
(原題 Learning from Las Vegas: The Forgotten Symbolism of Architectural Form)

RV.jpg

あひる・装飾された小屋

■参考:60年代~70年当時のモダニズムをめぐる文脈・情勢と社会

①モダニズムの普及(1930年代~)
 ○機能主義(サリヴァン「形態は機能に従う」)
 ○装飾の排除(ロース「装飾は犯罪である」)
 ○普遍性(≒国際性?)の追求
  ・CIAM(近代建築国際会議、28年)
  ・グロピウス「インターナショナル・スタイル」(25年)
  →ジョンソン、ヒッチコック(32年)
  ・ミース、グロピウスのアメリカ移住・教育

②モダニズムの黄昏(60年代)
 ・CIAM崩壊(1956年)
 ・コルビュジェ、ミース、グロピウス、ギーディオンの死

③60年代頃の社会情勢
 ・構造主義の台頭(世界を文節する要素の相互関係を強調→コンテクスチュアリズム)
 ・68年の五月革命(→ヴェンチューリ「非革命的」)
 ・アメリカン・ポップアートの隆盛(ウォーホル、リキテンスタイン、エドワード・ルシャ→商業ヴァナキュラーの利用)

■『ラスベガス』構成

本書の第一部は、コマーシャル・ストリップの建築についての私たちの研究の叙述である。第二部は、第一部において得た知見にもとづき、建築の象徴性と都市スプロールの図像学を一般化しようとしたものである。(10p)

既存のアメリカのアーバニズムを分析することは、建築家が市街地再開発や新しい開発計画を行なう際に、より深い認識にたち、より権威的でない態度を作り上げるのに役立ち、結果として社会的に望ましい行為となりうるといえるのである。加えて、以下に分析される商業的な誘いかけの手法とか、並び立てられたサインなどが、市民または文化の向上という目的に役立たないとも限らないのである。(27p)


■象徴主義
 ・建築にとって象徴性は不可避である
   →イコノグラフィー(図像学)

■あひる/装飾された小屋
あひる=「空間、構造、プログラムからなる建築のシステムが、全体を覆っている象徴的形態によって隠し込まれ、歪められている」建物。それ自体象徴的な「彫刻になりかけている」建物。

装飾された小屋=「空間と構造のシステムがプログラム上の要請に無理なく従い、しかも、装飾がそれ自身他のものと無関係にとり付けられている」建物。装飾のついたシェルター。

■ヴァナキュラー(その土地固有のもの)
 ・ポップアートからの影響
 ・後期コルビュジェのモダニズムからの逸脱(ラ・トゥーレット、ロンシャン)

レム・コールハースによる問いかけ↓

重要なのは、お2人の著書にはイコノグラフィーは特定の場所のもの、つまりアメリカのものでなくてはならない、と宣言されていることなんです。そういうイコノグラフィーがない場合は、何に頼ればいいんでしょう?
(コールハース&オブリストによるヴェンチューリ&スコット・ブラウンのインタビュー、「建築文化」2003年4月号)


■メガストラクチャー/都市スプロール(郊外化、自動車の速度)
 ・「(近代)建築家にとって、囲われた空間は非常に扱いやすく理解しやすい」(29p)
 ・「既存の商業建築を高速道路のスケールにおいて把握しようとする私たちの試み」(28p)
 ・商業主義によって洗練されたラスベガスの〈ストリップ〉、カジノの空間設計→工学化?

■建築家としてのヴェンチューリの態度

○建築の社会的役割の問い直し?→プラグマティズム
  ・「いかに建設されるか」と「いかに見られるか」(→167p)
  ・作り手視点から使い手視点へ
   (→モダニズム躍進の正当性を為す社会的要請と矛盾)
   (→アーキグラム批判)

多くの人が郊外を好んでいる。これがレヴィットタウンを調査して得た結論である。たいへん皮肉なことにも、近代建築はその当初から、思想的には社会的基盤によっているのだとされながら、近代建築家たちは、社会的関心と形態的関心とを切り離して考えつづけてきた。(208p)

建築家は認めたがらないかもしれないが、建築に関するほとんどの問題は便宜的な方法で済むものだ。(…)大体、世の中は建築家が自分のユートピアを作るのを待っているほど悠長ではない。建築家の関心は、どうであるべきかという原則論にではなく、実際にどうであり、今後どうしていくべきか、という点に向けられるべきなのである。建築家は、近代建築運動の時代に比べると今日では、より些細な役割に甘んじなければならないのである。(167p)


○モダニスト/ポストモダニスト
  ・RVとポストモダニストの共通点=装飾の肯定、多様性の推奨、歴史主義、地域主義(?)
    →原理的機能主義者?

(自分たちは)歴史的なリバイバル主義を持ち上げたわけじゃないのに、ポストモダニズムの輩たちの解釈はまさにそういうことになってしまった。偉そうに言うわけじゃないが、フロイト自身はフロイト学派じゃなかったし、マルクスもマルクス主義者じゃなかったのと同じで、僕たちもポストモダニストじゃないんだ。自分たちをポストモダニストと呼んだことは一度もないし、その言葉を文章に使ったことさえない。僕たち自身はモダニストだと思っているよ。(RKによるインタビュー)


○大衆主義
  ・エリート主義?

近代建築は商業的ヴァナキュラーを遠ざけてきたのだが、といってそれに代わる特有の、進歩した、普遍的なヴァナキュラーが創り出されたり、広く用いられたりすることはなかった。つまりそこでは純粋な芸術と粗野な芸術との結びつきが嫌われただけにすぎなかった。(28p)

大衆文化から何かを学んだからといって、建築家がそれまでの高尚な文化の中にあった彼または彼女の地位を失ってしまうことはない。ただ、高尚な文化がもう少し現在の課題とか必要性に敏感になるように、変質をせまられるだけのことなのである。(212p)

アイロニーは、複雑な社会における建築の多様な価値を調整、統合したり、建築家とクライアントの間の価値の相違を融合させる時に、有力な手段となる。社会の階級差を乗り越えることは難しい。しかし、もし価値の多元化した社会において、建築を設計し、建設するという点に関し、一時的な同調を得ようとするならば、逆説、機知、アイロニーなどを理解する感覚が必要とされるに違いない。(213p)


『ラスベガス』予習

ラスベガス (SD選書 143)ラスベガス (SD選書 143)
(1978/01)
R.ヴェンチューリ

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■キーワード1: 象徴主義(シンボリズム)

ラスベガスは本書の主題ではない。建築の形態の象徴性がそうなのだ。(19p)

著者がこのように述べるように、この本はラスベガスの都市調査の結果をもとに、近代建築で無視されてきた、建築における象徴主義の重要性を説いている本です。

初期モダニズムの建築は、多くその形態のネタ元を工場や穀物用エレベーターなどの工業建築にとってきました。しかし近代建築家はそのことを認めていません。なぜなら、近代建築においては、建物の形態は純粋にその建物に求められる機能に基づいて決められるべきであり(機能主義)、近代建築の形態が工業建築のそれを模しているというのは、機能主義に矛盾するからです。その結果、近代建築家は建築に働くイメージの連想作用の効果(=象徴性)を無視してきました。しかし同時に、工業建築や機械のイメージを参照したことで、「工業建築・機械は機能的である」→「近代建築の形態が工場や機械に似ている」→「近代建築は機能的である」という連想作用が発生してもいたのです。

60年代、既にCIAM(近代国際建築家会議)が崩壊し、コルビュジェ、ミース、グロピウスといった近代建築を切り開いてきた巨匠たちが相次いで亡くなった時代に、近代建築家たちは初期近代建築――20世紀初頭の工業建築を形態のネタ元とした建築――を形態のネタ元として建築をつくっていました。そして一方で、初期モダニズム以来の(機能主義を理由とした)象徴主義の否認が、依然として受け継がれていました。ヴェンチューリらは、ラスベガスの都市リサーチをもとに、建築家のこのような態度が現代に即していないことを訴えます。

建築家は建築における象徴主義の効果を認め、自覚した上で建築をつくるべきである。この本の主張はこの一言にまとめられます。改訂版の出版時に付けられた副題“The Forgotten Symbolism of Architectural Form”(「建築の形態の忘れられた象徴主義」)はその点をまさに集約している。

そして、象徴主義の重要性を説いた帰結として、図像学(イコノグラフィー)への関心や装飾の問題が立ち上がることになります。

■キーワード2: 「あひる」と「装飾された小屋」
あひる・装飾された小屋

「あひる(DUCK)」は「空間、構造、プログラムからなる建築のシステムが、全体を覆っている象徴的形態によって隠し込まれ、歪められている」建物、「彫刻になりかけている」建物、

「装飾された小屋(DECORATED SHED)」は「空間と構造のシステムがプログラム上の要請に無理なく従い、しかも、装飾がそれ自身他のものと無関係にとり付けられている」建物を指します。(119p)

前提として、近代建築においては、装飾が否定されてきました(→アドルフ・ロース「装飾は罪悪である」)。機能主義に則り、建物に必要とされる機能に応じて形態が決定されると、基本的に装飾は機能とは関係ないので、排除される傾向にあった。

次に、象徴主義=視覚的な情報による連想作用は、いかなる建物にも不可避的に作用します。建築の象徴性を無視してきたモダニズムの建物にも、何らかの象徴性が備わってしまうことは避けられない。だから、プログラムに従って純粋に機能的な構築をしているつもりでも、そこに象徴性がノイズとして入り込んで形態が複雑化してしまう。近代建築において不可避的に働いていた象徴性は、工場や機械に由来する技術的・機能的なものでしたが(キーワード1)、それらの要素は実際にはその建物にとって機能的でないことが多いと、ヴェンチューリらは言っています(184p)。そういう本末転倒な事態が起こっている。これが「あひる」です。

それに対してヴェンチューリらが提案しているのは、象徴性を担う装飾を構造から分離させようということです。そうすることで本体がシンプルな形態に収まる。ヴェンチューリらはこのような装飾と建築の関連付けをラスベガスのロードサイドに見出し、「装飾された小屋」と呼んでいます。

ちょっとわかりにくいですが、要点としては、近代建築家たちは抽象的な空間の造形に気をとられる余り、建築を彫刻(=「あひる」)にしてしまった。しかし、本来建築はシンプルな覆い(シェルター)でなければならない。単純なシェルターに装飾をつけたものが「装飾された小屋」である、ということです(「彫刻」の例えには、近代建築運動が一部の人々に占有される高尚な芸術となり、本来の「たてもの」としての面が忘れられているという含意があるようにも思えます)。別のところでは、「形態は機能に従わなくていいが、機能はなくちゃならん」とも言っています。

ヴェンチューリらは、この構図を提示した上で、当時の典型的な近代建築家ポール・ルドルフの作品「クロフォード・メナー」(「あひる」)と、自分たちの設計した「ギルド・ハウス」(「装飾された小屋」)を比較しています。(122p)
さらに、《あひる=巨大構造=含蓄の連想作用》と《装飾された小屋=都市スプロール=明示的な連想作用》を対比しています(もちろん後者の系を評価します)。
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ほんちく!!

Author:ほんちく!!
関西の大学生やら大学院生やら建築系やら文系やら忙しい人やら暇人やらが参加している、建築関係の読書会です!
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