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都市のこと考える

先日、「都市史学が開いた地平」というシンポジウムに行ってきた。次の読書会が、都市をテーマとするということだったので、ちょうどいい機会だった。さまざまな視点からの話題提供があったが、発表者に共通する関心は、おそらく「<都市>と呼ばれる地域がもつ、境界のあいまいさ」にあるのだろう。ヨーロッパや中国には、城壁で囲まれた、その意味では境界がはっきりした地域を<都市>と呼んでいるが、日本の場合はどうも様子がちがうらしい。たとえば、東京、京都、平泉といった地域は、人口からみれば立派な<都市>に振り分けられるが、城壁も存在せず、また「内部」に自然を抱えている。自然との境界がごくあいまいなのである。その点について、ヘンリー・スミスは「東京は巨大な農村である」と形容している。ソフトな面を考えると、<都市>はより面白い。鈴木博之が、「都市はあらゆるものを受け入れられる存在」と解くその性質である。これは網野善彦の<公界>に通じる考えといえよう。本来、何ら関わりのないもの同士がより集まって、干渉しあうこともなく、秩序を完全になくすかに見えるが、それでも何か見えない境界線でもって包み込まれた内部が、それなりの秩序を保っている空間。ではわれわれがいう、「都市的なもの」とはいったい何か。ひるがえって、「都市的でないもの」とはいったい何か。
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ラスベガスと道化

読書会が終わった後も、浅野くんと僕はいろいろと話をしていた。僕にとっては、そこで思いがけない一つの結論がでた。『ラスベガス』は道化だったんじゃないか。だからこそ、これだけ(どれだけかよく分からないが)の影響力をもったのではないか。
道化ってなんだろう。さまざまな定義はできるだろうが、ひとまずその本質をつかむとすれば、思想を持たない者(あるいは思想を持っているのかもしれないが、本当のところは何を考えているのかよく分からない者)のことだ。あっち行っては、そうだねと相づちを打って、こっち行ってはこうじゃない?と口出しする。ああそうか、とその場所で時間が動きはじめたら、もう彼はそこにはいない。八方美人という言葉もある。それは道化を言い当てている言葉のひとつだろう。
ラスベガスには、たくさんの看板がごった返していた。色も種類もごちゃごちゃだ。もし、ラスベガスが一種類の看板で、埋め尽くされているとしたら、こうは話題にならない。一種類の看板で埋め尽くされている例として飛田新地が出てきたのだ。飛田新地には、向こう何十メートルとわたって、四角い白塗りに、文字が書かれている統一された看板がずらっと軒を並べている。それはそれで圧巻だが、ここで問題となっているのは、その場合、ある種の思想がそこに裏打ちされているということだ。それがどういう思想であるのかはさしあたりここでは問題としない。統一されていて、歩くには心地がいい。一気に何か別の世界にもぐりこんだふうになる。
では、ラスベガスはどうだろう。統一感から来る心地よさではなく、むしろ秩序のなさから来る心地よさがきっとあるのだろう。それを統一感といってかまわないが、やはりそれもここでは問題ではない。
ベンチューリがいいたかったことは、おそらくラスベガスのもつ特異さを持ち上げたかったのではない。むしろ。ラスベガスに反映されている私たちの態度のようなものに注目したかったのだ。
「ダブル・バインド」という言葉をご存じだろうか。グレゴリーベイトソンという学者によって提案された理論である。たとえば、入院しているお母さんのところに、子どもがお見舞いにやってくる。母は「おいで、おいで」と、子どもに優しい言葉をかけて呼び寄せる。ところが子どもは、それとは裏腹な母の態度に直観的に気が付いてしまう。母は、「おいで」といいながら、その手はどことなく子どもが寄ってくるのを拒否しているのである。子どもは、母が自分を避けていると、どことなく気が付きながらも、なおも彼女に近づいていくしかない。ここで彼女を拒否してしまえば、彼は母を苦しめることになり、なお彼の生活を圧迫していくことになるのである。ところが、彼がただ純粋に、母の言葉を信じて近づいていくことも、母を苦しめることになり、また彼の疲労が重なっていく。このように、近づくことも離れることも出来なくなってしまうような状態をベイトソンは、「ダブル・バインド」(二重の束縛)と呼んでいる。このような環境のもとで育つと、この子どもは成人して精神障害を引き起こすというのが、ベイトソンの論である。
これは他人事だろうか。ぼくにはそうは思えなかった。これを呼んですぐに感じたのは、世間と個人の関係だ。学校で僕たちは、「君たちは立派な一人の人間なんだから、自分の思うように好きにやりなさい」とたたき込まれる。ところが、学校もいかず、家でギターを弾いて一生懸命に打ち込んでいると、すぐに罰を与えられる。世間と個人の関係は、このように実はダブル・バインドなんじゃないかと、僕は考えるようになった。
ところで、なぜ道化の話から、ダブル・バインドの話になったのか。それは、世間と個人の関係がダブル・バインドであるとするなら、僕たちはもはや道化にならざるを得ないからである。さきの母と子の話で重要なのは、決して子どもが母を拒否してはいけないということ。子どもは母を拒否しては、もう生活してはいけない。それと同じで、個人は世間を真っ向から否定すれば、生活していけない。そこで、僕たちは、無意識のうちに道化にならって生活するようになっているのである。母が「おいで」といえば、「はあい」と、近づき、愛しているふりをしてしのぐ。先生が「ちょっと」と呼べば、「何ですかあ」と、笑顔で答える。もうそれしかないんじゃないかな。「おれはこいつが嫌いだ」とか言っていられない。どんな人にもニコニコニコニコ、そこにいたいとかいたくないとかは別にして、その場をうまく切り抜ける。つまり、その場にうまくなじんでいるふりをする。本当のことなんか言っちゃったら、生活できません。その八方美人の態度は、まさしく道化のそれなんだろう。お笑いブームはおそらくそれと関係がある(ただ、お笑いブームはしょっちゅう来ているらしいが)。
話を建築に戻そう。『ラスベガス』は、そういう僕たちがもっている「生き延びるための道化的特性」みたいなものを暴くことによって、近代建築に「この、嘘つき。かっこつけたがり!」っていうふうに、近代建築のエリート集団に食らいついたように僕には思えた。ここでいうウソというのは、「形態が機能に従っている」ということである。「本当は機能になんて従ってやいないじゃないか、機能に従うんだったら、看板にEATって描くのだって、機能に従ってるじゃない」というのが、彼のいわんとしているところだろう。そして、それが出来たのも、ラスベガスがもつ道化っぽさにあると思うのだけれど、それじゃあラスベガスの道化っぽさって何だろう。それが無思想を装っているところだろう。いろいろな時代の様式を立ち上げて、八方美人なのだから、どこに思想の根拠があるのかよく分からない。思想の根拠が分からないということは、彼は敵なのか味方なのかもよく分からないから、攻撃しようにもできないということなのだ。それが道化の強さである。かくして、ラスベガスは近代建築に冷や水を浴びせえたのであろう。

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